Letter 32 コロナ感染 毛布の下で考えたこと
三月はじめ。
その日の朝、ばあちゃんはふだんやっていることができなかった。
ベッドから起きて、洗面所に行くまでのわずか7~8歩も覚束なく、脚がふらふらして途中で転倒した。昨日までできていたのに、今日はどうしたのだろう。座り込んだばあちゃんの脇の下に手を入れて彼女を起こした。寝起きだったからか、ばあちゃんを支える僕の身体はぐいと強い力が入った。なんだかいやな感じの力だった。
朝食を食べて薬を飲んだ後、いつもは使った食器は自分で台所まで運んでもらう。でもその時も、ばあちゃんは自分で身体を持ち上げようとしても腕に力が入らず、こたつから出て立ち上がることができなかった。立とうとしても、しばらくうつ伏せのような格好で動けずにいるばあちゃんの姿が目に焼き付いている。もう皿は大丈夫、ゆっくりしてて、と僕は食器を片付けた。
午前中ヘルパーさんがやってきて、ばあちゃんのトイレや歯磨きの介助をしてくれた。その時にヘルパーさんが測った血圧は通常値だったけど、体温は36.8度、いつもよりちょっと高いね、とヘルパーさんと話した。咳も少し出ていたけどまさかコロナとは思っていなかったので、その日一日いつも通り過ごしていた。
夕方、2回目のヘルパーさんの訪問で体温を計った時、38.4度ありますね、と言われ、机の上で作業していた僕はばあちゃんを返り見た。もう一度計ってみますね、こたつにずっと入っていたせいかもしれないので、とヘルパーさんはもう何度か計ると、それでも38度の数字が出た。これはいまから病院に連れて行った方がいいですねと僕たちは話し、かかりつけの病院に電話した。時刻は17時を過ぎていたけど、まだ診てもらえるとのことだったので、ヘルパーさんに手伝ってもらいながらばあちゃんを車に乗せ、僕は病院へと車を走らせた。
発熱外来用の駐車場に車を停め、車内でPCR検査をしたところ、結果は陽性だった。
ばあちゃん、が、コロナ。最初はこのふたつのワードが結びつかず、一瞬呆然となった。ここからは保健所の指示になります、連絡を待ってくださいと看護師に言われた。とりあえず僕は母に電話し、それから在宅ケアの事業所にも電話してばあちゃんの感染を伝え、事態が何も分からず助手席に座っているばあちゃんとふたり、家に戻った。
ばあちゃんをベッドに寝かせた後、僕は手を洗い、マスクを二重にした。鹿児島にいる家族と電話で連絡をとりつつ、手袋をして居間や洗面所、トイレ、戸の取手に除菌スプレーをかけて回った。
保健所から連絡が入り、現在の状況を伝え、今後のガイドを受けた。保健所のスタッフが血中酸素濃度測定器を家まで届けてくれるとのことで、玄関先のポストに入れておいてくれた。とにかくたくさん水分をとり、食事もできるだけとって、解熱剤を飲んで休むこと。血中酸素濃度も測ってみて、数値が93を下回るようであれば危険な状態かもしれないので知らせてください、とのことだった。
僕は台所に立ち、そばを準備した。ネギを切ったりそばを茹でたりしているあいだ、部屋からばあちゃんの咳と声が聞こえてきた。「喉が痛い。なんでこんなに痛いの」
ばあちゃんはもうすぐ85歳になるところ。その歳になってもまだ、生きているこの時間の中で新しいことを体験している。ふだんから不安になってめそめそしたり、家族やヘルパーさんたちからの言葉かけで喜んだりと忙しいのに、今度は未知のウィルスにかかってこんなに苦しんでいる。ばあちゃん、とても、生きているなぁという思いが沸いてきて、不謹慎かもしれないけど笑ってしまった。すごいなぁ、と。
部屋にそばを持って行く。ベッドの上に身体を起こさせ、身体の向きを変えて脚を畳の上に下ろし、椅子を持ってきてその上にそばの椀を置く。ばあちゃんはそばを2、3口食べて、もうお腹いっぱいと言った。ポカリといっしょに解熱剤を飲ませ、血中酸素濃度を測った。数値は95、96のあたりだった。ベッドの脇でオムツを替え、そのまま休んでもらう。
それから僕は自分のそばを食べ、布団を敷いた。寝る前にもう一度、ばあちゃんの体温と血中酸素濃度を測った。体温は37度台まで下がり、酸素濃度は96のまま下がっていなかった。ひとまず安心し、僕も寝床について休んだ。
翌朝、ばあちゃんの体温を測ると36度台にまで下がっていた。血中酸素濃度も97まで上がっていて僕は胸を撫で下ろした。前日の夜に家族が保健所に連絡してばあちゃんの入院希望を申請してくれて、この日の午後から近くの病院に入院できることになった。その病院で午前中、僕もPCR検査を受けた。結果は陽性。一定期間、僕も療養することになった。
家に戻り食事の準備をする。なるべく栄養を摂れるようにと何品か作った。ご飯にしらすをのせ、鶏肉を茹でて割き、菜の花を味噌で和え、豆腐としめじで吸い物を作った。椀に少しずつ盛りつけて持って行くと、ばあちゃんはそれぞれちょっとずつ食べた。
荷物をまとめ、ばあちゃんを病院へと連れて行く。一月中旬から読み始め、夕食後に僕が1章ずつ朗読していたエンデの『モモ』もしばし中断。
病院で対応してくれた看護師がとても親切に丁寧に対応してくれ、僕は心が少し和らいだ。病院のスタッフが用意してくれた車椅子に乗って、看護師に連れられてばあちゃんは病院の中に入って行った。
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二月下旬、ばあちゃんが発熱した日の6日前。
その日の夜、僕は悪寒がしてよく眠れなかった。布団の中で、これはもしかしたら、と思った。その日と何日か前に僕は外出していて、外で食事したことを後悔した。どこで感染したかはわからないけどあの時かな、という場面はいくつか思い浮かんだ。これまで基本的な感染対策--マスクと手指消毒はずっとしてきたつもりだったけど、もっと気をつけるべきだったと自分を責めた。毛布の下でうずくまりながら、思考がぐるぐると頭の中を回っていた。
ちょうど祖母を連れて実家に戻っていた時で、明け方、僕はマスクをして居間に体温計を取りに行った。部屋に戻り計ってみたら38度あった。母に発熱を伝えると「えぇ?」と驚き、すぐにマスクをした。そして僕が使った後のトイレを消毒し、戸の取手も消毒した。父も驚き、僕のここ数日の外出について批判した。
僕は朝のうちに近くのクリニックに行って検査を依頼した。コロナウィルスの検査としてはまず抗原検査をし、陽性が出たらPCR検査をしますと言われ、発熱外来で停めた車の中で抗原検査を受けた。その時に出た結果は陰性だった。僕はコロナの感染を覚悟していたので少し意外だったけれど、検査の結果に安心して家に戻った。母が用意してくれたうどんを食べ、解熱剤を飲んでその日はずっと寝ていた。母が食事を用意してくれたので助かった。
僕はワクチンを接種していなかった。インフルエンザワクチンなど、子どもの頃から何の疑問ももたずにワクチンを接種してきた。でも今回のワクチンは開発からわずかな時間しか経っておらず、これから先の長期的な副作用の可能性を含めて考えると、日々報道されるコロナのリスクについて耳にはしていても、なんとなく接種にはためらいがあった。
ワクチンを接種していないことも含め、コロナ禍における過ごし方(たとえば外出すること、人と会ったり外で食事をとったりすること)について、家族の中で意見の相違があった。父は言った、もし自分がコロナにかかった時、ワクチン接種していたら重症化しないで済むんだぞ、と。それにお前は高齢者と生活しているんだ、もしばあちゃんに感染させたらどうする。
父の言っていることは正論だった。それでも僕は、ワクチンに対する抵抗感を払拭できなかった。僕の友人の中には接種した人も接種していない人もいて、感染リスクやワクチン接種後の副作用などについて友人たちと話しながら、接種について自分なりに考えたが、結局いままで接種することなく過ごしてきた。でもその日の夜、布団の中で悪寒を感じながら、コロナに感染したかもしれないと思うと怖くなった。ワクチンを打っていないならより慎重になるべきだったし、ワクチンについてもウィルスについても、もっとちゃんと調べておけばよかったと思った。
“もっと直感を磨け 身体の声を聴いて”
その時浮かんできた思いを言葉にするとこうなる。
こっちに行ったらなんとなく危ない感じがする。こっちの道の方がいいかな? そういう直感のアンテナを磨き、自分の判断をより精確なものにしていくこと。正解がわからない状況の中で(たとえば情報が複数あり、どこに真実があるかわからない時)、感覚をフルに開き、これまでの経験や知識を総動員して道を決めていくこと。そういう力が必要と切実に思った。
そして、快いとか、なんとなくしんどい、というような身体の声にちゃんと耳を澄ませること。自分の身体が日々どんなふうに(無意識のうちに)機能しているのか意識したり、感じたり、調べてみたりすることはとても大事なことと思う。身体はメッセージを発している。その声に耳を傾け、もっと敏感にキャッチしていこう。その努力はきっと、日々の自分の選択をよりよいものにしていくはず。一朝一夕では身につかない。ふだんの暮らしの中で磨いていくしかないこと。
翌朝、体温を測ると39度まで上がっていたが、昼頃になって、解熱剤のおかげか熱が37度台に下がった。食事をとり、またしばらく休む。夕方になると36度台にまで下がり、それからは熱が上がることはなかった。次の日には祖母を連れて大隅の家に戻った。
あとになって保健所のスタッフからは、この時の僕の発熱がコロナの最初の感染とみています、と伝えられた。抗原検査では陰性だったけれど、その時にはまだウィルス量が多くなく、数値として出ていなかったのだろう、とのことだった。一度陰性の結果が出ていたので僕はたんなる風邪と思っていたが、熱が引いた後、たしかに喉が痛くなり咳も出た。僕は実家では別室で過ごしていたので、両親は感染することはなかった。感染したら最もリスクにさらされるばあちゃんに感染させてしまったのだが。
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ばあちゃんが入院した後、僕は大隅の家で一人療養生活を送った。療養期間中は身体がしんどくて僕はほとんど寝ていたけれど、毎食何かしら作って食事をとっていた。一度鹿児島から両親が食材を届けに来てくれた。窓越しにありがとうと伝えた。
症状としては味覚異常が起こると聞いていたけど、たしかにしばらくは食べ物の匂いを感じにくくなった。チーズがものすごくしょっぱく感じたり、コーヒーはただ苦いだけで、その風味を感じることができなかった。咳はそれほどひどくはなかったけれど、寒いところに行ったりするとやはり時々出た。
ばあちゃんは病院で検査をしたところ中等症だったようで(重症化する前に入院できてほんとうによかった)、レントゲンを撮ったら肺に若干の影があるとのことだった。幸いなことに、ばあちゃんは入院しながら治療を受け、もとの健康状態を取り戻すところまで回復した。10日ほどの入院の後検査をし、退院が決まった。
家に戻ってきたばあちゃんは、少し食べる量が減り、脚も以前より弱ったようだった。でも、これまでと変わらないばあちゃんの姿があった。家でまた、食卓にご飯を並べて食べられるようになった。ありふれた、ふつうの生活の有り難さを思う。
次の日から、僕は中断していた『モモ』の朗読を再開した。途中中断したので、読了するのに三月中旬までかかってしまった。もちろんばあちゃんは話の筋はすぐに忘れてしまうのだけど、『モモ』というタイトルだけは入院を経ても覚えていて、毎晩熱心に僕の声に耳を傾けていた。最後までこの本の朗読ができてほんとうによかった。