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2022-02-17

Letter 31 Welcome to my life

2021. 12. 19
唄を作り、お客さんの前でうたった。
バー・イパネマにて毎年夏・冬に開催されるイパネマライブ。僕は今回が3回目の参加。

【今回のタスク】
・ふだん感じていることから詞を書き、メロディーにのせ、唄という形に仕上げて自分でうたう。
・パフォーマンス時には、自分が出している音を自分でちゃんと聴く。余分な力を抜く。

今回ライブで演奏した5曲はぜんぶ最近作ったもの。
曲という形で近況報告するつもりで作り始めたのは、それでも12月に入ってからだ(手帖を見て確認)。自分の内にすでにイメージはあったんだな。ライブまでの期間は、それを取り出してきて実際に形にする作業だったんだ。

僕は今回どんな風に曲を完成させただろうか?
メロディーと曲の世界はずっと内にあって、鼻唄をうたっていた時にサビの一部分だけ言葉が宿った。そこからストーリーを練っていき、ライブ前日の晩に布団の上でノートを広げて詞を完成させた。(「Coyote Song」)
何も考えずに出鱈目にうたっていた時、なんかこのメロディーいいかも、とピアノでそのフレーズを弾いてみて、そこから曲を展開させていった。詞は後からつけた。(「冒険者」)
湯上がり時にインスピレーションが沸いて作り始めた。漂うイメージから始まって、メロディーと詞が同時進行で出来ていった。(「ゆらゆら」)
朝、庭に出た時に目に映った情景と、そこで感じとったものをピアノで弾き、そこに詞をつけていった。何をメッセージとするかを考えながら書いていったら情景が夜の設定になった。(「愛ある場所へ」)
夕食後のばあちゃんの寝顔を見ていたら言葉が浮かんできて詩を書いた。ピアノでなんとなく弾いたメロディーに言葉をのせていった。ライブ当日の午前中、ピアノの前に座り、弾きながら言葉をつないでいって完成させた。(「わたしのお願い」)

探していた詞の言葉がふっと見つかったのは、車の運転中が多かったように思う。ライブ前日に大隅から鹿児島に向かって車を走らせながら歌詞を考えていて、ピタッとくる表現が見つかったパートも多い。デッドライン(幕が開くタイミング)があって、なんとか形にしなきゃと思った時にスイッチが入る、ということなのか。

そして、ライブ本番。満月の夜だった。
自分の出番になって、ピアノを前にして椅子に座った時、さほど緊張していないなと思った。以前ここでうたった時よりも自分の声がちゃんと聴こえてきたし、ピアノを弾く身体は適度に力を抜くことができた。最後までうたいきらなきゃという意識でタイムキープしつつも、リラックスしてうたうことができた。今回やりたかったことはとりあえずクリア。よし。

自分のパフォーマンスを終えて客席に戻り、その後は他の参加者のパフォーマンスを見ていた。この日出ていた唄い手は僕を含めて8組。自作した曲をやる人が多かった。それがおもしろくて最後まで見ていた。
顔が一人ひとり違うように、音楽のスタイルも本当にさまざま。表現の形は違えど、その人なりの音楽への向き合い方がパフォーマンスを通じて伝わってきて、音楽という表現の懐の深さと、何より、人間のおもしろさを改めて思った。

いろんな人たちのパフォーマンスを見ながら、僕が長いあいだテーマとしていたことってこれだったのかなと思った。つまり、他者が集っている場所で前に出て行って、これが自分です、とプレゼンすること。自分をひらくこと。それを相互にやる−−自分をひらき、他者を受けとめる。そのことをもっともっとやりたかったのだと思った。どんな場で、どんな形でプレゼンするか、それは人それぞれ違うのだろうけど、自分の領域で自分なりの表現をしていけばいい(そしてどんな人もきっとそれを自分の人生でやっている)。
たとえば僕が中高生だった頃も、不安定で確立していない自我とともにそれをやっていたのだろうけど、音楽などのアートを通じた自己表現、そしてそのやりとりに興味があるとはっきりわかったいま、もっと伝えたい、精確に、深く。自分の内面にあるものを。日々生まれる感情を、思いを。その手触りや温度感を表現してみたい。
同時に、他の人たちはどんなことを思い、この世界をどう受けとめ、どう表現しているんだろう? 以前より、そこにもっと触れたいと思うようになったし、実際に手を伸ばすようになった。

“Welcome to my life”

椅子に座っていろんな人たちのパフォーマンスを見ながら、そんな言葉が浮かんできた。人生へようこそ。やっとここに立てたな。
自分の本質のようなものがあるのだとしたら、まだまだそこに近づいていくプロセスの途上にいるのだと思う。そこに近づこうとすればするほど、よろこびも悲しみも、泣くことも笑うことも、その振れ幅は大きくなっていく。そんなイメージがある。
自分の本質に踏み込むことは(それは人生の本質に踏み込むことと言ってもいいかもしれないけど)、僕にとっては勇気が要ること。自分の領域を定め、そこで真剣に勝負することでもあると思うから、判断力と相応のエネルギーが必要だ。本質に近づきたいと思いながらも、僕はそこにアクセスすることを怖れてもいた。なぜなら、そこでは自分自身の見たくない側面も見えるだろうから。そしてそれと向き合わざるを得なくなるから。傷つくこともあるだろう。自分の存在のすべてを懸けて勝負した時に、結果を見るのが怖い。自分の存在に判定が下されるように感じる。そういう気持ちはいまもまだどこかにある。
でもそこをくぐることでしか自分を生きることができない。それもまた、真。自分がほんとうに感応できるもの、それと向き合わないと、いつまで経ってもどこにも辿り着けない。
だから行こう。ちょっと重い負荷を感じても、負けそうな時も、とりあえずやってみよう。先に進んでみよう。
その分、日々の思いや感情が、これまでよりもずっと鮮やかになる。深くなる。そんな気がする。その一瞬一瞬をだいじにしていこう、その色合いを楽しんでいこうと思った。

「まだそこ? 遅いんじゃない?」
自分に向ける眼差しとして、別の声も時々、自分の内から聞こえてくる。
世の唄い手やアーティストたちは、力のある作品を作ってどんどん発信している。お前はまだそんなとこにいるのか。自分がクリアできたと思っていることも、結局は自己満足でしかないんだろうか。

自分を誰かと比べている時、気持ちが後ろ向きになる。そして、ここにいる自分は歩みが遅いなとか、こんなこともできないなんてダメだなと、自分を責めてしまう。

しかし、誰かと比較した時に沸くネガティブな感情は、自分の足を引っ張るだけで何の役にも立たない。
誰かと比べるより、自分の課題やテーマとするところを見つけて、それと向き合っていった方がいい。自分がおもしろいと思ったものをとことん追求していった方がいい。そして自分が周りと比べてどうこうと思い悩むより、自分が抱く理想や目標に対して、いまの自分はどうあるかを問うた方がいい。それは誰かとの競争ではなく、自分自身との闘い。
やりたいことがあるなら、尻込みせずにやった方がいい。だってそれは自分にとって、とてもとても大切なことかもしれないじゃない? 自分自身の核心や、人生の核心をつかむ、そのタイミングがいつ訪れるかは自分にもわからない。それは突然訪れるもの。
江國香織さんの小説の中で読んだことがある。タイミングというのはとてもパーソナルなもの。飛行機のエアポケットみたいに、ある時ふっと降りてくるものなのだ、と。
そこに至るまでに、踏んでおかなきゃいけないステップがあるとしたら、それは自分の感覚がこれだと思うものをつかんでおくこと。とにかく自分でやってみること。やってみたら自分の中で何かがわかる。いままで見えていなかったことに気づくかもしれないし、周りからフィードバックがあるかもしれない。とにかく何らかの変化が生まれる。

月日の巡りがとても早く感じられるようになったいま、人生そんなに長いものではないのだなと思う。
だから、いま、ずっとやりたかったことを真ん中に置いてやるべきだ。真っ直ぐにそこにアクセスしたい。感じる負荷はたぶん、現在という時の重み。その重みを感じながら、押しつぶされず、そこから逃げるでもなく、やりたいことをやってのけるだけの気力と体力をもち続けよう。