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2022-01-26

Letter 30 何かを育てること 自分の限界を知る

何かひとつのことを続けること、僕はいままでどのくらいやってきただろうか。

興味をもったことはなんでも、まずはやってみるタイプだと思う。入口はたくさん転がっている。
でも、その入口から中に入って、先へと進めていったものはどのくらいあるだろう。

「やらなきゃいけないから」という義務感とか、やれと言われたからやる、という他人任せなものではなく、自分の内から沸き起こる自然な欲求や衝動に従ってやること。そういうものは、自分の内面を見てみるととても限定されていると思う。

やっていて、好きだなぁと素直な実感がもてること。
やっぱりこれに惹かれる。この世界にずっと浸っていたいなと思える領域。

そういうものになるべく早いうちに出会えて、打ち込むことができたらラッキーだ。
でも、まっすぐそこにアクセスできたらいいのだけど、難しさもある。

好きなことに出会うには感覚が研ぎ澄まされていなければならない。自分の感覚に敏感でなければ、何かに自分が感応していることも捉えられない。

あと、これは自分を振り返って思うことだけれど、好きなことを続けていく上で自己受容はとても大切だと思う。自分を受容できていなければ、好きという気持ちも素直に受けとめられないだろう。好きなことをやったり深めていったりするのは、自分への信頼や、自分にはできるという自己肯定感がベースになるのかもしれない。それには、環境や周りのサポートも必要だけれど。

そして、これだというものを見つけたとしても、日々の生活のいろんなことが、それを続けさせるのを時に困難にする。
やらない理由はたくさんある。それをやり続ける理由はただ自分の内にしかなくて、自分で見出していくしかない。やらなくたって誰にも文句は言われない。見つけた原石を手放すのは、とてもかんたん。

何かを為そうと思うなら、力のあるものを生み出したいと思うなら、それだけ時間とエネルギーが要る。自分がやっていて素直に楽しいと思える領域を見定められたら、そこで活動していけるように環境を整えていくこと。それは、好きなことを続けていくために不可欠なこと。

それでも、思いがそれに向かわない時は、どうしたらいい?
自分でやろうと決めたこと、でもいまはどうしても気持ちがそこに向かわない。

そんな時は、思い切って他のことをやる。気の赴くままに。
もしくは、何もしない。放っておく。また自然にそのことに心が向かう時が来るまで。

ただ、先に何か目標があるなら、どこで、どんなことをしていても、これは何のための時間なのかを少しだけ意識できたらいい。

しばらくほったらかしにしていた畑に行って、芽から成長し葉を広げている野菜たちを眺める。

畑をひらく時にはあんなに思いをかけたんだ。生い茂っていた草を刈り、土を耕し、畝を作り、思いを込めて蒔いた種。
僕は何かを始める時は熱が入るし、凝り性だから細かいところにも気を配ってこだわる。でも、12月は曲を作ったりレコーディングをしたりで、何回か間引き(隣り合った葉が触れない程度に作物を根っこから抜き取る)をしたくらいで畑にあまり足が向かわなかった。思いが畑から離れていた。しかしこのほったらかし具合はなんだ。自分に文句を言う。むかし読んだ、ばななさんの『キッチン』にあった言葉がふと頭をよぎる。

「何かを育ててみたらいい、そしたら自分の限界がわかる」

そんな言葉だったと思う。
こういう時に、その言葉の意味を実感する。せっかく苦労して場を整えて蒔いた種なのに、その後も思いをかけてあげなければダメになってしまう。一時の熱だけでは欲しいものは実らない。時間をかけて、継続的にあたためてあげなければ。

しゃがみこんで野菜たちを間近で見つめる。とりあえず、周りに生えている小さな草たちを摘み取る。もっとも、あまり手をかけていないけれども、蒔いた種たちはちゃんと芽を出し、陽の光を浴びてグングン伸び、葉を伸ばしていく。植物の生命力と、太陽と水の力を思う。

野菜作りのテキストを開いてみると、ブロッコリーは本葉が5、6枚になった頃、広いところに定植してあげなさいと言っている。種を蒔く時期が10月末と遅くなってしまったが、蒔いてみたブロッコリーの種はちゃんと芽を出し葉が伸び、もうとっくに定植する時期の大きさになっていたがそのままになっていた。他の野菜たちは、もう少し大きくなるまで間引きをしておけばいいみたい。
冬、この辺りは朝晩の冷え込みが厳しく霜が降りるので、芽が出て葉を伸ばしている一本一本のまわりに枯れ草を敷いておく。そして、ブロッコリーを定植するための土地を耕し、また新たに畝を作る。

何かを育てること。いまの僕にとっては、音楽がそう。ピアノの練習と、声を磨くこと、自分の楽曲を作ること。まわりの音に耳を澄ますこと。音楽の法則を知ること。
ぜんぶ、時間がかかること。別にいまこの状態ででもうたえるし、音楽はできる。あれこれ身につけたり、練習したりするよりも、ただ無心にうたっていることの方が大事なのかもしれない。でも、この声でより多くのことを表現できるようになるなら、より音楽の世界を自由に行き来できるようになるなら、ちょっとずつでも積み重ねていきたい。
育てるというのとは違うけど、ばあちゃんへのケアもそうかな。
自分の状態と向き合いながら、目の前のことをこなし、日々を過ごしていく。

・ 

実家に戻った時、部屋の本棚から『キッチン』を手に取り久しぶりに開いてみた。
そこに書かれていたことはこうだった。登場人物のえり子さんの台詞。

「本当にひとり立ちしたい人は、なにかを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからが始まりなのよ。」

実際にやってみたらわかる。熱がこもる瞬間、よろこびを感じる瞬間。一方で、どうも気分が乗らない時、心が向かわない時もある。そんな時、自分の思いはこれほどのものだったのかと思う。僕はそれの何に心惹かれ、何に夢中になっていたのか。

それでも、続けていけば体験が重なっていく。以前はできなかったことが、ふと気づけばできるようになっていることもあるし、その世界の新たな一面を知ったり、それまでになかった視点がいつの間にか身についていたりする。

大事なものに心をくだく。愛するものをケアする。育てるというのはそういうことなのかな。
口で言うほどかんたんではない。時間の過程の中で立ちはだかったように感じる壁とどう向き合い、乗り越えていくか、そこで自分が問われる気がする。

いまは思いが向かわない、それはそれでいい。
自分の状態に素直に、フラットでいよう。
でもどこにいても、どんなことをしていても、大事なものにつながっている。目指したい方向性を意識している。そんな風にあれたらいいと思う。

*引用
吉本ばなな『キッチン』(1988) 新潮文庫 より