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2021-09-08

Letter 28 休むことと活動することのスイッチ

今日は本を読んでいても、書いていても、内容が頭に入ってこないし書きたいことがうまくまとまらない。
よいしょと立ってキーボードの前に座り、鍵盤を叩きながら発声する。声を出している時は何も考えずにいられる。せめてものルーティンワーク。その後、畳の上でストレッチをして、腕立て伏せと、腹筋と背筋を鍛えるトレーニングをする。

それを終えてしまうと、流れが止まってしまう。やらなきゃいけないこと、そのリストはいくつも頭の中にあるけれど、心が向かわないので空白の時間をつくってみる。僕は畳に座って窓の外をぼんやり眺める。太陽に照らされて明るい庭が見える。夏の景色だなと思う。扇風機がまわる。窓辺に吊るした風鈴が微かに鳴る。

空白の時間をつくろうと思ったのに、しばらくするとiPhoneを手に取り、ページをめくりながらイメージの海の中を泳いでいる。空白に耐えられない。いまは意識を外に向けるのではなくて内側に向けるべき時。たぶん。直感でそうわかっているのに、行動が従わないのはなぜだろう?小さな疑問やモヤモヤは心を曇らせ視界を狭くする。

手と足を動かしながら考える、がテーマだったのに全然できてない。そう考えると不安になって、焦りが生まれる。
いや、手帳を見返してみたら、毎日いろいろ、何かしらやっているのだ。
問題は、どんな時でも心のどこかに「何かやらなきゃいけないこと」とか「終わらせないといけないこと」があるような気がして、それを気にしていることだ。ほんとうはゆっくりしていていい時でさえ、どこかにそういう意識があるから落ち着かない。これまでにたくさん、たくさん「急ぎなさい」とか「早くしないと間に合わないよ」と言われてきたんだろうと思う。その声が意識の裏に染み付いている。その声から自由になりたい。

でも一方で、ほんとうに急がなきゃならない時に急げないこともこれまで何度もあって、そのことを自分でも自覚している。要は、自分で時間をコントロールする感覚をもてたらいいのだろうと思う。「律」を外側ではなく、自分の内にもつこと。

僕は「律」をイメージする。それは、外側の声に必要以上に影響されることもないし、外側で起こっていることに無頓着な状態でいて後から慌てることもなく、自らの精神のモードと時間が重なりあっていっしょに進んでいく、そんな感じだろうか。
そして、自分を信頼できる感覚が必要。これが根底にないと、ほんとうにリラックスした状態で休むことも、創造することもできない。つまり、真に生きることができない。
自分に自分を委ねられること。その感覚がなければほんとうにやりたいことはできないと思う。この感覚の強弱は人それぞれだと思うけど、ちょっとやそっとで身につくものではない。時間をかけて自分と対話し、癒し、育てていくものでもあると思う。

最近話した人が言っていたことが印象に残っている。楽譜の中の「休符」は、ただ休み、という意味ではないんだ。休む、というと何もない、何もしないし何も起こらないというふうに捉えられがちだけど、そうじゃない。休む中にもいろんな感情があり、いろんなことが起こっている。休むという状態の中で、自分自身も常に変化しているのだ、と。
僕は彼が言っていることに納得した。一つの曲の中で、音楽は常に流れている。その流れの中で、休符の状態は単に「止まっている」わけではなく、次の展開へと向かうひとつのプロセスだ。そのことが日常の中でも理解できたら、休むことをもっとポジティブで豊かなことと捉えられそうだ。

日が傾いてきた。
「よし、草取りでもするか」。ふと思い立ち、僕は長袖のシャツを着てジャージを履いて、首と手首に虫除けスプレーをして手袋をはめる。空白の時間、いや、間延びした時間はもう十分。
「ちょっと庭の草取りしてくるから」とばあちゃんに声をかける。居間に座っているばあちゃんも、ぼんやりとした表情をしている。そりゃ部屋の中にずっといたらこうなるよなと思う。「ばあちゃんもいっしょに草取りしよっか」
「いや、わたしはここにいて待ってるから」「そう?でもしばらく部屋の中でゆっくりしたし、外に出た方が元気になるかもよ」僕がそう言うとばあちゃんは頷いた。「わかった。わたしは草取りをします」

庭に出て、伸びた草を抜いていく。山から吹いてくる風を感じる。ばあちゃんは座って草取りするのは身体がきついと思ったので、椅子を置いて、ここに座って取ったらいいよと誘導する。しばらくして隣を見たら、ばあちゃんは椅子から下りて足をついてしゃがみ、もくもくと草をとっている。とても手際がよく、その様を見ていて僕はさすがだなと思う。長年の経験がちゃんと身体に染み付いている。その場所に置かれたら自然と背筋が伸び、身体はひとりでに動き出す。それまで玄関先で寝そべっていたシロは、僕たちが草取りを始めると元気になって周囲を駆け始めた。

40分ほど集中して草を取った。結局、一輪車の荷台一台分と、かご一杯に僕たちが取った草が積まれた。ばあちゃんのズボンは足をついていたところが土で汚れていた。履いていた靴はよそ行きのものだったことに僕はその時気がついた。「ズボンと靴が汚れちゃったね」と僕が言うと、「ズボンはたくさんあるから」とばあちゃんは言った。服が汚れることも気にせず目の前のことをもくもくとやるばあちゃんと、いつも身体を舐めているきれい好きなシロの、それでも獲物を追いかけたり遊んだりする時にはなりふり構わず駆け回る姿に通ずるものを感じ、僕はふたりをお手本のように感じた。