toggle
2021-08-31

Letter 27 迎え火と送り火

八月に入って何日か経ち、僕はもうすぐお盆が来るなぁとぼんやり考えた。
これまでお盆というものをあまり意識したことがなかった。僕の家では風習にならってお盆を過ごしていなかったし、実家を離れた後は、お盆を思うきっかけがそもそも環境の中になかった。
いま住んでいる場所は、母方の先祖が代々暮らしてきた土地。家の中には仏壇があり、先祖の写真も飾ってある。そういう環境に身を置いていることもあってか、いまの僕には先祖の霊が帰ってくるというお盆がだいじな期間であるように思えて、今年は先祖に対してできる限りの「おもてなし」をしようと考えた。
僕は地域の図書室で日本の年中行事についての本を開き、お盆の準備の仕方や供え物について学んだ。初めて知ることばかりだった。図書室を出た後、タイヨーで菊の花と、りんごと梨を買って帰った。

13日。
雨が降っているが、先日柿渋を塗った床板に蜜蝋ワックスを塗る作業をやろうと思う。仏壇がある部屋なので、床板も整った状態にしておきたい。掃除機をかけて埃を除いたあと、端の方からワックスを塗っていく。カーワックス用のスポンジを使って蜜蝋ワックスを薄く塗り伸ばしていき、その都度タオルで拭き取る。その作業を一人で黙々とやっていたらシャツに汗が滲んでくる。夕方、床板全てを塗り終わる。
僕は道具を片付け、仏壇の掃除を始めた。仏壇が置かれている間を布巾で拭き、線香やロウソク立てなどを置いている台座を拭く。埃をかぶっていたロウソク立てやじいちゃんと曽祖母の写真立てはばあちゃんに渡し、拭くのを手伝ってもらう。長いあいだ点けていなかった二つの電灯は、コンセントプラグを差してみたら片方の電球が切れていた。僕は部屋を探して使っていない電球を見つけ、取り替えてみたら点灯した。
造花を入れていた花挿しを台所に持って行き、代わりに買ってきた菊の花を入れる。茎がちょっと長すぎたので、このくらいかな、というところでばあちゃんに鋏で切ってもらい、器に入れて水を差す。きれいに拭いた仏壇に菊の花を置く。長いあいだそのまま置いてあった大小二つの湯呑みを洗い、あたらしい水を入れて供える。
叔母が送ってくれた葡萄と、買ってきたりんごと梨を器に並べ、台所のかごの中にあったパッションフルーツもついでに載せる。その果物の盛り合わせと、近所の方からいただいた菓子折り、タイヨーで買ったかりんとうを供える。「きれいになったね」とばあちゃんは微笑んで仏壇に向かって手を合わせた。

時計を見るともう7時を回ろうとしている。窓の外は依然として雨が降っていて薄暗いが、まだ空にほんのり明かりが残っている。僕は「迎え火」の準備を始める。その上で火を焚けるくらいの大きさの器が見つからず、別棟の台所にあった中華鍋のような鍋を使うことにする。僕が別棟で適当な器を探しているあいだ、シロもあとをついてきた。ふっと見ると畳の上で蛙が仰向けになって白い腹を見せている。「シロ、ここに連れて来ちゃだめ」と僕は怒鳴る。鍋を見つけたので早く玄関先に持って行きたいのに、シロは半殺しの蛙を咥えたり、離したりを繰り返している。僕はシロが今度咥えたのを見て、彼女の胴体をつかみ上げて戸の外へと連れて行く。シロは蛙を咥えたまま軒下へともぐって行った。
本来であれば、迎え火で燃やす材には「おがら」という麻の芯や松の木を使うそうだが、納屋にあった杉材の余ったものや小枝・枯葉を使うことにした。鍋の中に丸めた新聞紙と小枝、枯葉を入れ、杉板を置く。その鍋を玄関の前に置き、椅子を用意してばあちゃんをそこへ誘導する。

鍋の底に入れた新聞紙にライターで火をつける。煙が立ち、炎が紙全体に広がっていく。あたりはもう真っ暗で、鍋の中の火だけが煌々と周囲を照らす。シロもいつの間にかそこにいて、燃え上がる炎を見たり、近くを行ったり来たりしている。
「じいちゃんたちはここを見つけられるかね」と僕が言ったら、「見つけられるかね」とばあちゃんが繰り返す。しばらくして、曇り空の合間で点滅する飛行機の光を見て、僕は「あ、帰ってきた」と指差した。冗談で言ったつもりだったのに、ばあちゃんは「おかえり」と言った。

部屋に戻ってから、もうひとつ供え物を準備した。きゅうりと茄子で作る供え物だ。この野菜の置き物を見たことはあったけど、家に置かれたことはなかったし、もちろん作ったこともなかった。それは精霊馬(しょうりょううま)、精霊牛(しょうりょううし)と言って、先祖の霊を運ぶ乗り物に見立てて置くものなのだと知る。
冷蔵庫に入っていたきゅうり、茄子の中から、小ぶりで少し形が反ったものをひとつずつ選び、割り箸とともにに机の上に置く。乗り物の足となる割り箸は、馬用のものは長めに、牛は短めに切る。ばあちゃんも知らなかったそうで、僕はきゅうりが馬で、茄子が牛になるよと説明してから、それぞれに四本ずつ割り箸を差した。完成した乗り物たちを仏壇の台座に置く。連れてくるものと、送るものとで方向を逆にして置くのだそう。ここまでやって、なんとかご先祖さまをお迎えできたかな、という気がしてほっとした。

それから僕は台所に立ち、買っておいたホッケの干物を冷蔵庫から取り出してコンロのグリルで焼き、味噌汁と酢の物を作って食卓に並べ、ばあちゃんと二人で食べた。

14日。
その日、ひょんなことから僕は同級生と再会することになった。彼とは中学と高校が同じで、何度か同じクラスにもなったことがあった。以前の職場の同僚が彼のお母さんと知り合いになり、僕に連絡をくれ、こちらから彼にコンタクトをとってみたら久しぶりに会おうということになった。聞くところによると、青年海外協力隊でしばらくインドに滞在していたのだけれど、昨年コロナウィルス拡大の影響で帰国を余儀なくされ、いまは鹿児島の実家にいるとのことだった。
記憶を辿ると、彼とは大学2年の時に一度会ったきりでその後やりとりしていなかったから、実に13年ぶりに会うことになる。一日大雨になる予報だったが朝のうちに小降りになってきたので、連絡をとりあい、僕は待ち合わせ場所の国分のカフェへと車を走らせた。

久しぶりに会う彼は、風貌といい、物腰といい、高校時代の印象からまったく変わっていなかった。互いの近況を話しながら、僕は高校時代の彼とのやりとりを思い出した。彼はインドでの生活や、協力隊としての仕事の内容、インド社会に生きる人たちのあれこれを教えてくれた。束の間、いまの生活とはまったく違う現実を垣間見た気がした。実際に話していると、会っていなかった時間がどんなに長くても、その人とのあいだにあったものがよみがえる。人と人との関係の妙を思う。
お昼でも食べようかと話して、彼が一度行ったことのあるというカジュアルなイタリアンレストランに入った。メニューを開くとパスタ、ハンバーグ、サンドイッチの中から選べるようになっていて、彼はハンバーグにする、と言った。「インドに戻ったら気軽に牛肉が食べられなくなるから」
僕もハンバーグなんて久しく食べてないな、と思って、軽い気持ちでじゃあ僕もハンバーグにする、と言って注文した。ハンバーグはとても美味しく、セットのスープやパン、サラダも美味しかった。彼は大学で経済学部に進んだが、卒論はサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』について書いたんだと話してくれたことから、しばらく互いの好きな小説の話をしながら食事をした。

食事を終えて僕たちは別れ、その後車を運転しながら、「あ、お肉食べたな」と思った。そういえば、いまお盆だった。お盆に肉を食べることがよくないことという考えは僕にはないが、お盆の期間は肉を使わない精進料理を食べるのが慣わしということくらいは知っている。
しかしそれだけ、ハンバーグもイタリアンのランチもコーヒーも、あまりに自然に現代の日本で生きる僕たちの日常に溶け込んでいて、外国の文化に触れたり、それぞれの人がそれぞれの価値観を選べる時代に生きているのだと教えられた気がした。

夕方家に戻り、都城に住む友人から先日もらった手作りの干し椎茸を水で戻し、そうめんを茹でて、そうめん汁を作って二人で食べた。

15日の朝、今日は終戦記念日だね、とばあちゃんと話す。
八月は、6日、9日、15日と、大戦で亡くなった人たちを思い起こさせる日が続く。でも、年によっては、「あれ、今日はそう言えば・・・」と一日の半ば、もしくは夜になって初めてその日が何の日だったか思い出すことがあり、その瞬間はっとする。これが風化なのかな、と。

今日はおはぎを作る。釜にもち米を入れ、水でサッと洗ってたっぷりの水につけておく。二時間くらい置き、水を米と同量にして炊飯器で炊く。炊き上がったお米は粒が立っていて美味しい。子どもの頃、炊きたてのもち米をちょっとだけもらって食べた味をいまも憶えている。身体に染み込んでいる記憶はいつまでも忘れないものだ。
そういえば子どもの頃、父方のばあちゃんといっしょに暮らしていた時には、お盆の時期には仏間に提灯を出して、仏壇に供え物をしたり墓参りに行ったり、この時期だけに出される料理を食べたりしていた。僕は、お盆に出す提灯、電源につなぐと中が青く照らし出されて紅白の水玉がクルクルと回るあの提灯が好きだった。ばあちゃんの物忘れが進み、高齢者のケアホームに入居してからは提灯を出すこともなくなった。

手に水をつけ、少し冷ましたもち米をのせてにぎる。ネットで見たレシピの写真通り、おにぎりより小さめに、楕円形にして並べる。つぶあんの缶詰を開けてスプーンで片手に適量のせ、その上にもち米をのせて両手で軽くにぎる。今度は、きな粉を皿にあけ、砂糖と塩少々を入れて混ぜ、そこにもち米を入れてまぶす。これで、おはぎの出来上がり。
つぶあんと、きな粉のおはぎをひとつずつ、皿に置いて仏壇に供える。お湯を沸かしてお茶を淹れ、僕たちも出来たばかりのおはぎを食べる。
夜は、冬瓜と人参を出汁で煮て薄口しょうゆで味付けしたものと、茄子の揚げ浸しを作って食べる。

16日。
朝起きて、僕はまず溜まっていた衣類を2回に分けて洗濯機に入れてまわした。今週は雨が続いていたので洗濯ができず、今日も天気がすぐれない。この後もしばらく雨が続きそうだったので、かごに溢れている衣類をそろそろ洗濯しなければならない。洗い終わった衣類を商店街にあるコインランドリーに持って行き、乾燥機に入れる。
衣類を乾燥しているあいだ、食材の買い出しをする。前の日に「かいのこ汁」を作ろうと思い立ったが、材料が家にほとんどなかったので次の日に食材を揃えることにした。買い出しを終え、乾いた洗濯物を取り込んで家へと向かう。

かいのこ汁は、鹿児島の郷土料理でお盆に作る料理のひとつ。よく父方のばあちゃんが作ってくれ、僕はお盆の時期に食べられるその汁料理が好きだった。材料は、大豆、かぼちゃ、里芋、ごぼう、といもがらと呼ばれるハスイモの葉柄、干し椎茸、昆布、揚げ豆腐、こんにゃく、味噌。夏野菜をこれでもかというくらい、たっぷりと入れる。椎茸と昆布を水で戻しているあいだに野菜の皮を剥いて切る。鍋に椎茸と刻んだ昆布、戻し汁を入れ、水を加えて火にかける。そこに切った野菜を入れ、小さく切った揚げ豆腐とこんにゃくを入れて煮込み、アクをとって味噌で味付けしたら出来上がり。
出来た汁を器に盛り、ラップをかけて仏壇に供える。お盆の最後の日になってしまったが、供えることができてよかった。たくさん作ったので、その後三回ほど、このかいのこ汁が食卓にのぼった。

夕方、送り火をする。雨はまだ降り続いている。玄関に出る前に、ばあちゃんと二人仏壇の前に座り、線香をあげて手を合わせる。
迎え火と同じ要領で、鍋に新聞紙を丸めて置き、小枝を並べる。雨が降り込まないよう、鍋を納屋の入り口付近の屋根の下に置く。ばあちゃんを呼んで椅子に誘導し、新聞紙に火をつける。僕は燃え広がる炎を見つめ、次第に枝がオレンジ色に燃えていく様子を眺めた。ゆらめく炎と煙の匂いが、いつかポートランドの森で焚いた火を思い出させた。シロは迎え火の時と同じように鍋の中を見つめたり、あたりを行ったり来たりしていた。

「じいちゃんたち、ゆっくりできたかな」僕が訊くと、「ゆっくりできたと思うよ」とばあちゃんが頷いた。鍋の中の火は次第に弱まり、白い灰の中に熱く燃える枝が数本残るだけになった。僕は鍋を雨垂れの下に持って行き、次第に火が消えるのを待ったが、シロが鍋の中に入ってはいけないと思い、水を汲んできて鍋の中に注いだ。シュウと音を立てて煙が上がり、その煙もすぐに消えると、暗闇の中に雨の音だけが残った。