Letter 26 日々のこと ばあちゃんとシロとの共同生活
iPhoneのアラームで目を覚ます。時刻は2:50。上体を起こしてしばらく布団の上でじっとしている。
立ち上がり、洗面所で顔を洗う。台所に行き、先日汲んできた水をタンクからグラスに注いで飲む。湯を沸かし、コーヒー豆をミルに入れて挽く。ハンドルを回していると少しずつ目が覚めていく。挽いた粉をドリッパーにセットし、湯を回すようにして注ぎ込む。
テレビをつける。フィンランドの首都ヘルシンキの街をトラムに乗って巡る。ナレーションはなし。ピアノが奏でる静かな音楽とともに、トラムの窓越しに見える街の風景が映し出される。街の造りや、通りを歩く人たちの顔を眺める。聖堂や書店など、いくつかのスポットが紹介され、画面がその建物の中に入っていく。書店にはどんな本が置いてあるのか、どんな雰囲気の空間なのかもっと見てみたいと思う。実際にヘルシンキに行ったらどんなところを訪ねてみようか、コーヒーを飲みながら考えてみる。
玄関の扉を開けると、ひんやりとした外気が僕の背中を伸ばす。僕は家の裏手に回り放尿する。庭の方に出て、濃い闇に少し光が漏れはじめてきた空を見上げ周囲を見渡す。田んぼの向こうの木々を眺める。
ニャー、と高いキーで鳴きながら、シロがこちらにやってくる。身体を伸ばしあくびをしているが、目の前に何か飛び跳ねるものを見つけた途端にサッとハンティングする体勢に入る。この家にやってきた時よりもずいぶん元気になった。
おはよう、と声をかけて僕はシロを抱き上げる。片手でつかめてしまうくらいの小さな身体。鼻を近づけるとシロの匂いがする。何と形容したらいいのか。ジャスミンライス、という言葉が頭の中に浮かんで、それは褒めすぎだろうか、と思う。猫全般に共通する匂いなのか、シロ特有のものなのかはわからないが、とにかく僕はシロの匂いが好きだ。頭を撫でるとシロは目を閉じて気持ちよさそうな顔をする。シロ、と声をかけると少しだけ右目を開けて、小さな声でニャーと鳴いた。
家に入るとばあちゃんが居間に座っている。おはよう、と声をかけると、おはよう、とばあちゃんが返答する。「りょうくん、わたしはわからなくなりました。いまはトイレに行く時間ですか」と訊かれる。「トイレに行きたいですか?」と尋ねると、「・・・わからない」「そしたら行ってみようか、トイレに行ったらしたくなるかもしれないね」
ばあちゃんをトイレに誘導して、僕は台所でばあちゃんの朝食を準備する。昨日炊いたご飯を茶碗についで、冷蔵庫に入っている作り置きのキュウリの酢の物や、明太子や梅干しなどを添える。味噌汁が鍋に残っていたら火にかけて椀につぐ。
トイレに戻り、ばあちゃんに声をかける。ばあちゃんはオムツの中に敷いていたパッドを取り出して床に置いている。
「おしっこは出ましたか」「出ました」「便は?」「便は出ないです」「そしたら拭いて、パッドを片付けようか」「はい」ばあちゃんはズボンを上げて、尿を吸収したパッドを新聞紙で包んでゴミ箱の中に入れる。
居間に戻ってきたばあちゃんに食事を出す。「手は洗いましたか?」「洗いました」「はい、じゃあご飯を食べようか」「はい、ありがとう。いただきます」
ばあちゃんがご飯を食べている間、僕は先日リフォームしたばかりの台所でコーヒーを飲む。インディゴブルーに塗り替えた壁に、ホームセンターで買ってきた材で友人が作ってくれた机。開けた窓の向こうに山の緑が見え、静かな風が流れてくる。僕は冷蔵庫からキウイを取り出してナイフで皮をむき、ヨーグルトといっしょに食べる。
8時過ぎにデイケアセンターのスタッフがばあちゃんを迎えに来る。「おはようございます」デイケアのスタッフが到着し、僕たちは挨拶を交わす。僕はばあちゃんが朝食後の薬を飲んでいるか確認し、着替えの服やオムツの替えを入れた鞄を職員の方に手渡してばあちゃんを送り出す。
さて、今日は何をしようか。決められたことは何もない。
僕はキャンドルを畳の上に置き、火を灯して腰を下ろす。目を閉じて呼吸に集中すると身体の調子がわかる。しばらく身体が感じていることに意識を向け、心に思い浮かぶことを見つめてみる。
目を開けて、キャンドルの火を消し、僕は座ったまま両腕を前に出して背中を伸ばす。足を伸ばし、首を回し、肩を回す。窓から差し込む日差しで部屋中が明るい。
脱衣所に行き、溜まっていた衣類を洗濯機の中に入れて電源ボタンを押し、洗剤を入れて蓋を閉める。居間に戻り、読みかけの本の中からひとつを手に取り、ページをめくる。読みながら、感じたことをノートに書きとめる。
洗濯機の中から衣類をかごに取り出し、僕は帽子をかぶって庭に持っていく。外に出ると日差しがじりじりと肌を焼く。洗濯した衣類をハンガーにかけ、竿にかけていく。
縁側に置いていた作りかけの棚が目に入ったので、僕は続きの作業をやることにする。音楽を聴くための機材、プリメインアンプやCDプレーヤー、レコードのターンテーブルを置くための棚。二段組みの、かんたんな作りのもの。電動ドライバーでネジを打ち込み、板と板とをとめていく。形が出来上がったら、無垢材の板にニスを塗っていく。
作業しているとだんだん空腹を感じ始める。時計を見ると1時を回っている。僕はやっていた作業を切り上げ、食事を作る。冷蔵庫に入っている白身の魚をフライパンで焼き、アスパラガスと椎茸、ししとうを炒める。調理の音が聞こえたのか、外で鳴き始めたシロに台所から声をかける。「ちょっと待ってて」
僕にはシロの声が「お腹空いたー!」と訴えているように聞こえる。こういう時、人の子も子猫も、声がまるで同じなんだなと思う。扉を開けて外に出るとシロは一段と声を上げて僕の足にまとわりついてくる。僕はシロ用の皿を庭の水道で洗い流し、その中にご飯を入れ、軒下に置く。シロがぴたっと鳴き止み、黙々と缶詰の魚を食べ始める。僕はしばしその姿を観察する。
料理した品を机の上に並べ、手を合わせて食事を始める。自分が食べるもの、そして食べるということに対しても、以前よりだいぶ意識的になった。目の前にある食材はどこからどうやってここに辿り着いたのか、誰がどんな手間隙をかけて育ててくれたのか。それを思うと感謝の念が沸き、自然と手を合わせたくなる。
昼食をとったら少し昼寝をする。涼しくなってきた頃、途中まで塗りかけていたニスを最後まで塗って棚を仕上げる。それから長袖のシャツを着て畑に出て、伸びている草を刈る。ブルーベリーの木にたくさん実がなっている。以前ばあちゃんが植えたものだ。いくつか実をとって食べる。
夕方、ばあちゃんがデイセンターから戻ってくる。
「おかえり。今日はどうだった?」「楽しかったです」とばあちゃんは答えるけれど、なんだか疲れている様子。コップに水を注いで渡す。
「今日は何をしたの?」「わたしは、言われるままについて行って、みんなと同じように動いてきました」僕は「そうなんだ」と答えながら、ばあちゃんの返答を少し残念に思う。以前はばあちゃんはいろんなことをやっていた。短歌を作るサークルで歌を詠んだり、手芸クラブで創作をしたり、集落の人たちとグラウンドゴルフをしたり、友人と旅行に出かけたり。以前のばあちゃんを知っているから、少しでもまた昔のように生き生きと生活してほしいと願ってしまう。
それでも、週に3回家を訪問してくれるヘルパーさんたちは、ばあちゃんは最近とても明るくなったと言う。やっぱり誰かが家にいてくれるとこんなにも違うものなのね、と。ヘルパーさんたちも一人ひとり個性があって、彼女たちと話している時のばあちゃんは楽しそうだ。
日が傾いて空がオレンジ色に染まってくる頃、洗濯物を取り入れてばあちゃんに渡す。自分の衣類やタオルをたたんでもらっているあいだ、僕は今晩のご飯のための米を研いで、炊飯器にセットする。
いま使っている炊飯器はガス釜だ。アルミ素材でできた釜はガス栓につながっていて、内部のバーナーの直火で米を炊く。昔からこの家で使っていた釜だが、捨てられそうになっていたのをきれいに拭きあげて栓につなぎ、スイッチを押してみたらちゃんと作動した。炊き上がったご飯はお米の粒が立っていてとても美味しい。何気ないことだけれど、こういうことはとてもうれしい。
洗濯物をたたみ終えてぼんやりと座っているばあちゃんが、「お願いがあるんだけど」と言う。「わたしはピアノの音が聴きたいんだけど、弾いてくれる?」
最近、一日のうちに何回か、ピアノを弾いてとお願いされる。「いいよ」と言って、僕はキーボードの前に座る。ピアノを弾いてよ、と頼まれること、そして演奏する音を聴いてもらえることは、僕にとって幸福なことだ。ばあちゃんに頼まれて、そういえば今日はまだ鍵盤に触ってないな、と気づくこともある。日常の中で音を奏でるきっかけをばあちゃんが作ってくれている。
無垢材の床の感触を足の裏に感じる。六月に仲間に手伝ってもらいながら、畳だった八畳間を床板にした。その張りたての床を見るとやはりうれしくなるし、気が引き締まる。頭の中のアイディアに過ぎなかったことが、ちゃんと現実になった。朝起きる度に、この床を張った空間を寝ぼけ眼で見てそのことを確認する。自分の内なる思いや考えが現実をつくっていく。
発声をして、気の赴くままに鍵盤を叩き、それに合わせて声を出す。ばあちゃんは僕が発する音にじっと耳を澄ませ、リズムに合わせて手で調子をとったり、何かを深く感じているような表情をしたりする。「聴く」ことに関して、ばあちゃんはちょっとした才能があるんじゃないかと思う。どんな音楽に対しても、耳を澄ます、という姿勢があるように感じる。ばあちゃんくらいの年代の人たちには全く馴染みがないであろうR&BやHip Hopの曲を流していても、じっと聴きながら拍をとっていたりする。畳の上で、クッションを枕にして横になったばあちゃんの身体に、軽快なピアノやベースの重低音の波が浸透していく。
炊き上がったご飯とつくったおかずを皿に盛り付けて机の上に並べ、ばあちゃんと手を合わせる。ただ黙々とご飯を食べることもあれば、気が向いた時にはテレビをつけて「きょうの料理」やニュースを見たり、ラジオで音楽を聞きながら食べることもある。
夕食をとったあとは急に疲労感を覚え、眠くなる。ばあちゃんをトイレに誘導し、寝る前の準備を済ませてから、食器を洗い、自分の布団を敷く。
眠りにつく前に、今日あった出来事を起床時までさかのぼって振り返る。印象に残ったこと、気になったこと、それらのことに一日の最後の力で意識を向け、そして枕の上に頭を下ろす。