Letter 25 変化の途上を生きる僕ら 美しいグラデーション
手を差し出すと、手のひらをそっとやさしく重ねてくれる。ふわりと、薄い空気を包むみたいに。
やわらかい手のひら。
ソファに座っている彼の宙を泳ぐ目線は、僕の顔のところで止まり、しばらくじっと見ている。ゆっくりとまばたきしながら。
小粒の目だが、ぱっちりとした瞼と長いまつ毛でまばたきする様は、僕にはちょっとユーモラスに感じられる。
笑うでもなく、しかめ面でもなく、ただ目の前にあるものを淡々と見つめるような表情。
彼はどんなことを思っているのだろう。わからない。それとも彼はただただ無心なのか。
食堂で昼食をとった後、晴れた日には利用者と園庭に出て日向ぼっこをする。
芝生の上のベンチに座って、陽の光を浴びる。
ボードウォークの上に腰掛けたり、芝生に落ちている葉っぱを拾ったり、池の中を覗いたり。みんな思い思いに過ごしている。
寮の玄関から車椅子を押して職員がやって来る。乗っているのは、施設に入所している利用者の中で最年長のおばあちゃん。
まるいお顔で、ショートカットにしているグレーの髪は小ざっぱりとしている。ブランケットにくるまれて陽の光の中に佇む彼女はほんとうに愛らしい。
道ゆく利用者や職員が互いに声をかけ合う。笑い声がする。小言をつぶやきながら歩いて行く人もいる。
みんなそれぞれの時間を、それぞれの人生を生きている。
あたたかなこの場所で、青い空の下、陽の光に照らされて一人ひとり立っている利用者や職員たち。
僕は目の前にいる一人ひとりの姿を見る。
静かな風が吹いている。胸いっぱいに空気を吸い込んで吐き出す。
「ここはこの世でいちばん幸福で、平和な場所かもしれない」と思う。そんな瞬間が度々訪れる。
その時、そこには安らぎがあり、ほほ笑みがある。新鮮な空気があり、くつろげる場所がある。
*
ここ最近、眠っているあいだに見る夢を、明け方、薄ぼんやりした意識で辿っている。
何日か前、布団の中で僕はまだ夢の領域に浸っていた。部屋は暗かったと思う。少しずつ部屋が明るくなってくるとともに意識が覚醒してくる。朝がやってきたな、そろそろ起きなきゃと思う。夢の世界の空気が薄くなって、日常の細々とした事柄が思い浮かぶようになる。すると突然、「現実」が頭の中に流れ込んでくるように感じた。それは夢の情景をざばざばと押し流した。そのくらい「現実」のあれこれはパワフルで、リアルで、くっきりとした形を伴うものだった。そして僕は「現実」の像と同時に沸き起こる感情に気づいた。それは恐れであり、恐れに対する防御、だったように思う。現実を生きる意識の中で、たぶん自分でも気づかないけれど、そこに恐れがあることを改めて知った。僕はもう夢の情景を思い出せなかった。思い出したくても、それはもう遠いところにあって手が届かなくなっていた。でももう少し毛布の中にいたかった。こうしていたらまた夢で見た世界を思い出せるかもしれない。
しばらくすると、ラウンジのソファに座っている利用者たちの姿が浮かんだ。彼らは無意識のままで、そこに座っているのだろうと思った。それは自分の状態を防御せず、無防備なままでそこにいるということなのだろうか。ご飯を食べるときも、工房で活動しているときも、園外へ出掛けるときも。彼らはずっと、無防備でいる。僕にはそう思えた。
もちろん彼らにも恐れはある。10分ごとに今日の予定を確認したり、今日のシフトに入る職員を尋ねてくる利用者がいる。シャツやズボンの着替えを何枚も重ねて胸の前で持ち、一週間分の予定を繰り返し訴えながら職員に同意を求める利用者もいる。彼らは先の予定を把握することで安心している。ちょっとした変化、例えば予防接種とか、急な予定変更などがあると、彼らはとても不安になる。毎日のルーティンや日課、そのプロセスから外れることを嫌がる。
それでも、瞬間ごとの彼らの存在は、意識を働かせている職員のあり方よりもずっと無防備で、無意識的に見える。だから、利用者とはそこの領域でコミュニケートできる気がする。ふだん僕たちが気にしている、他者にどう思われるかとか、行為のあとの結果を気にするとか、そういう意識が働かない。彼らはよろこびも、恐れも、ぜんぶストレートに表現する。それが人によっては突発的な叫び声になることもあるし、急に走り出したり、物を壊したりという行為につながることもある。でも同時に、彼らは「好き」や「嫌い」を物怖じせずに言葉にする。言葉を話さない人は、表情として顔に出る。言葉にならない声を出す。おもしろかったらあははと笑い、おもしろくなかったら顔をしかめる。それだけだ。とてもシンプル。
言いたいことが溢れる(ように見える)とき、ある利用者は僕の手を握ったり、肩を掴んだりする。そして身振り手振りで話し始める。内容はつじつまが合っていたり合っていなかったりするけれど、妙に説得力のある話し方をする。ふだんはソファでぼんやりとテレビを見ている別の利用者は、急に唸り声を上げながら走り出し、ぴょんぴょん飛び跳ねながらこちらに接近してきたりする。男性の職員にも、女性の職員にも、時々利用者にもそれをする。でも、彼に間近に顔を寄せられたとしても、女性の職員でもにこにこしている。彼が近づいてきても、唸っても、他者を攻撃するようなところは一切ない。みんなそれを肌で感じとる。
そんなやりとりの中で、こちらも気づかぬうちに心が緩んでいる。まるで家族と接するかのようにフランクに挨拶を交わしたり、他愛もないことを話したり、冗談を言って笑い合ったり。相手の身体に触れて、触れられて。人はきっとこういうつながりをどこかで求めている存在なんだなと思う。言葉をかけ合ったり、笑顔を交わしたり、肌で触れ合ったりするような親密さを。
「君にとってここでの仕事はリハビリになるんじゃない?」以前先輩職員とのやりとりの中でそう言われたことがあった。その通りだった。利用者(そして職員も)との人間的なつきあいの中で、僕の中でたしかに目覚めてきたものがあったように思う。目の前にいる人は、血が通っている人間だということ。(触れたらあたたかい。)理屈だけでは人は動かない。(そのときの感情や、気分や、身体や精神の状態が作用する。)そんな当たり前と言えば当たり前のことを、近くにいる人たちを見て、触れて、言葉を交わして、改めて実感した。あぁ、人間って面倒臭い・・・。でも、人間って愛おしい。
*
僕は、無心になれることっていいなぁと思う。無意識的な状態や、無防備さに憧れる。そこに回帰したい、というようなことをいつも思っている。利用者と接していて新鮮な驚きがあったり、おもしろいと思うのは、彼らがそのような状態を体現しているからだ。でも、僕はなぜこんなにもそういう状態に憧れるのだろう?
たぶんそれは、現代が意識の領域にかなり重点を置いているからだ。意識的であることにあまりにも比重が傾きすぎて、バランスを失っている。神経が疲れているのだ。現代人は僕も含めて、そういう状態から解放されたいと願っているだろう。もっと安らぎや、ゆらぎを欲している。心のままに笑ったり、泣いたり、ぼうっとしたり、集中したりすることを求めている。でもどんなにそこに近づきたくても、日常を送る中で完全に無防備にはなれないし、無心になろうとすれば現実的なあれこれが思い浮かぶ。
僕は意識的であることを否定しているわけではない。それは生活していく上で必要不可欠な部分だ。職員としての仕事は、意識的であること。危機管理をしたり、先の予定を計画したりする。利用者の食事やトイレの介助から、与薬、治療など、より高度なことも求められる。それがなければ利用者は安全に快適に生活することができない。日々の活動を継続していくこともできない。
利用者は職員の機能—意識的であることや適切な管理—を求めていて、職員は利用者の特性—型にはまらず無防備であること—に触れることで心に安らぎをおぼえる。求め、求められる関係。どちらが正しいとか偉いとかではなく、ともにあって機能を補完し合う関係。そういう関係性をつくることができたら、僕たちは個ではなく全体として、もっと強く、やさしく、しなやかに生きられると思う。
「障がい者」という言葉で、その括りの中で見えなくなってしまうものがあるのはもったいないことだ。利用者と日々接しながらそう思う。一人ひとり、身体的な特徴も、持っている能力や気質もほんとうにそれぞれだ。言葉を話す人、話さない人。ふだんは話さないけど、特定の人(家族など)とだけ話す人。同じ言葉を何度も繰り返し口にする人。絵を描くよりも、字を書くのが好きな人。反射神経や運動神経が著しく発達している人。記憶力が高い人(何人もの利用者や職員の誕生日を記憶している)。お話しするのが好きで、ユーモアを交えて話す人。誰もがみな、「その人」でしかない。誰一人として同じ人はいない。
そのことはそのまま、職員にも当てはまる。「障がい者」に対置される言葉としてある「健常者」、その括りの中にいる職員を見ても、その人の気質や能力は様々。人の個性や発達というものはほんとうに奥が深く、微妙なさじ加減で変化するものと感じる。
入職したときに手渡された支援者のためのハンドブックに、こんな文章があった。
「人としてのあり様は、子どもであっても大人であっても、またそれが育ちぶりや遊びぶりであっても、また暮らしぶりであったとしても一人ひとりは限りなく個性豊かです。そしてその個性を構成している要素的な機能とか能力とか力は全て相対的であり、グラデーションとかスペクトラムをなしているといえます。あたかもあの紅葉に栄える雑木林がまさにグラデーションそのものの美しさであるように、それこそが人間界を美しく感動的で、生きるに値するものにしているといえます。人のあり様には絶対的な正悪とか聖邪とか正常と異常とかなどはあり得ないのだ、ということは私たちが人と向き合う場合の原点となるのではないでしょうか。」
施設で過ごす日々を重ねながら、僕はこのことを実感するようになった。イメージでいうと、完全な白とか黒とかはなく(それは概念でしかない)、白から黒に変化していくグラデーションのどこかにみな位置している。そしてその位置は変動する。固定的なものは何もない。それが人間のありよう。だって生まれてから死ぬまでの人生を送る人間にとって、いつも一定であることなんてなく、常に変化の途上にあるのだから。変化しながら生きている個人と個人が出会って、話して、笑って、ときにぶつかって、何かを交換し、また歩いていく。その軌跡を可視化できたなら、それはきっと美しく、限りなく豊かなはずだ。なぜならこんな奇跡的なことってないのだから。