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2020-07-17

Letter 20 たくさんの顔 通じあう瞬間を追いかけて

 六月のある日。
 一日中雨になるだろうという予報は見事にはずれ、昨日は朝から晩まで晴天だった。今日も朝から雨が降るという予報だったけど、出かける時、玄関の扉を開けると青空が広がっていて、傘を持っていくのを忘れそうになった。昼間もずっと晴れていた空が、夕刻に近づくにつれて雲が広がり、とうとう雨が降り始めた。霧が立ち込めあたりは真っ白。気温が高くなった空気に湿気が混じり、おまけにコロナ対策でマスクをしているせいでむせ返りそうになる。自宅への帰り道はマスクをはずして歩く。
 晴天だった昨日、心持ちはうつむき加減でどうしようもなかった。仕事が終わって家に帰り着き、友人から頼まれている楽曲を仕上げようとキーボードを前にする。でも気持ちが乗ってこなくて作業が進まない。どうしたものか。
 部屋の中で煮詰まった僕は外に出て、近所の公園へと歩いた。高台にある野原からは遠い稜線や桜島、市街地が見える。芝生の上に腰を下ろし、仰向けに寝転ぶ。視界全体に薄い紫の色味が入った青空が広がり、夕陽に照らされた雲が姿かたちを変えていくさまを眺める。日常でのほんの些細な出来事や他者とのすれ違いによって、視界全体が暗くなる。いやなことって避けることはできない。透明な空を眺めていても、見ているのはこの自分なのだから、心模様がそのまま投影される。こんなに広い、限りのないものと向き合っていても、結局は自分と向き合っていることになるんだ。大きい小さい、広い狭い、という尺度の観念が変わる。というか、見ている景色、世界イコール自分そのものだなあ、という感慨につながっていく。 ・・目の前にあるものを、目の前にあるものだけを見つめて、過ぎ去ったものに捉われなくなったらいいのに。修練を積めば、自分もそうなれるだろうか?
 しばらく空を眺めてから家に戻るが、心はまだ重い。それでも、部屋で今日の気づきをノートに書き留める。いま胸のうちにあることをそこに吐き出す。鍵盤に向かう。時間だけが、ただ無為に過ぎていくのを惜しく感じるから。夕食をとり、作業をし、床に入り今日という一日を終える。睡魔に襲われ、まどろんだ途端に一日が流れ去る、と言った方が近いか。

 ところが今日は昨日とは一変、心持ちが上向きだった。もちろん気持ちにもグラデーションがあって、急にではなく少しずつ明るくなってきたのだけれど、自然に唄を口ずさんでいるのがその証拠。職場に向かう時はまだ気持ちがうつむき加減だったところから、現場に立ち、身体を動かしひとつひとつの作業をこなしながら気持ちを立て直していった。
 目の前にあることにフォーカス。いまこの瞬間に注意を向ける。たったそれだけ。シンプルに動くことが僕の現在のテーマ。目の前のことをひたむきにやっていれば無心になれるから。そうすれば余計な思考に心を占領されなくてすむ。心持ちも、天気みたいだなと思う。晴れたり、雨が降ったり、曇り空になったり。それを、あるがままに受けとめられたらいい。自分が孤独で、取るに足らないちっぽけな存在で、解決の見通しが立たないような問題をたくさん抱えていて、不遇な場所に立たされているかのように思えた昨日から、いやこの先もなんとかやっていける、大丈夫。自分が信じていることは間違っていない、と思えるのは生きていればこそ。もちろん孤独ということに変わりはないけれど(誰もがそうだ)、そのことに悲嘆したり恨めしく思ったりせずに、ちゃんと受けとめられる。そしてまた立ち上がって、先へ向かって歩き始めている。そうあれる今日という一日に、有り難うと思う。

 目の前に、人の顔がある。顔、顔、顔。どれひとつとして同じものはない。けれど、その表情の奥にあるのは、どれも同じ、人の顔なんだ。目があって、鼻があって口があって、笑ったり、泣いたり、言葉を発したり、呻いたり。みんな、おんなじ。ほんとうに、みんな変わらない。個性と呼ばれるものを取っ払ってしまえば、これ以上削ぎ落とすことのできない人間の原型とでもいうべきものに気づく。起きて、立って、ものを食べ、排泄し、身体を清め、身体を休め、眠りにつく。いま、人間の生活の基本を見つめている。
 こんなに人のそばにいたことがない。四六時中人といっしょにいて、時を共にしている。ご飯を食べる、歯を磨く、絵を描く、散歩する、おやつを食べる、体操をする、テレビを見る、音楽を聴く。これまでの人生の中でもそれらは他者と共有してきたことだけれど、この一年半の間に初めて経験したことは、他者の食事や入浴、歯磨き、トイレのお手伝いをすることだ。それらの場面に際して初めは抵抗がなかったわけではない。やはりそれは新鮮な体験であり、介助者たちが利用者の入浴やトイレのお手伝いをしている姿を見て、こういう風にするのかと純粋に感心した。そこにはいくつかの注意すべき点があり、その人なりの考えや方法があるのだとわかった。

 表情が移ろうように、感情も揺れ動く。微風に炎が揺れるように。言葉がなくとも、表情や行動にそれは現れる。相手は生身の人間、自分も人間、生き物同士が向き合っている。揺れ動くこと、その状態は生き物として自然なことのはず。でも、どこかの時点で、僕は揺れ動くことをコントロールすべきもの、克服すべきものと捉えてしまったのかなと思う。揺れ動いている状態では他者と向き合えないし、そういう部分を見せてはいけないのだと思っていた。常に変わらない冷静な部分を保つことができなければならない、と。
 でも、いまはそう思わない。揺れている状態を無理に繕ったり、元に戻そうとしたりせずに、いまの自分のあり方としてフラットに受けとめる。みとめてあげる。実際身体は、意識は、自分が知らぬうちに常時働き、変化し続けているのだから、自分のあり方が一定であるなんて幻想でしかない。あり方として「一定」のものを目指すよりも、晴れたり曇ったり雨が降ったりと天気が移ろうていくように、心も身体も常に変化していくそのあり様を自然に、そういうものとして受けとめて日々を過ごす方が、より全体的という気がする。そして、フォーカスするとせわしなく動いている身体や心を俯瞰してみたら、そのあり方が描く軌跡はきっと「恒常」なんじゃないか。

 昼下がり。寮のソファに座ってみんなとテレビを見ている。なんていい表情なんだろう。テレビに出ている人たちの顔がじゃなくて、そばに座っている人たちの顔が。ちょっとした言葉でパッと晴れたり、顔をぐしゃぐしゃにしてしかめ面したり。ふだんあまり笑わない人が、ふとした瞬間、にーっと笑っていたり。言葉になる前のコトバで何かを唱えていたり、呻いていたり。彼らの場合、内面の揺れや衝動がそのまま外側に現れる。時には極端に。初めは奇異に感じていた彼らの声や表情が、いまはとてもナチュラルに感じられる。
 この施設に通ったり入居している利用者の中で、自閉的な傾向をつよくもつ人ほど、その人自身のこだわりもまたつよく出る。時に頑なにさえ思える彼らの行動を見ていると、そこに「ありのまま」を感じたり、ほっとしたりするのはなぜだろう。背伸びしなくていいよ、「ふつう」なんてないよ、もっと素直な自分でいていいよ、そう言われているような気がするんだ。
 最近思うのだけれど、どんな人にも精神性=selfとでもいうべきものがあって、それはたぶん、性別、職業といったその人の属性や能力、その人自身が「これが自分だ」と思っているアイデンティティなんかよりも、もっと奥にある無意識とつながっている。その領域に立てば、カテゴライズされた社会的な立ち位置や、「障がい」(とされるもの)のあるなしによって引かれる境界線は消える。そこには上下も左右もなく、誰もがおなじフィールドにただ在るだけ。人とつながりたい、コミュニケーションしたいという欲求は僕にもあるけれど、ほんとうの意味でつながるって、通じあうって、僕にとってはこの領域において相手を知り、相手に自分を知ってもらうことだ。

 日常の中にたくさんの人たちの存在がある現在の日々は、いくつもの声や言葉や表情で彩られていく。施設でのケアの仕事も、音楽仲間たちとの交流も、友人たちや家族や街の人たちとのやりとりも。どれもごくふつうの、些細なやりとりだけど、僕にとってはそれぞれに意味があり、いろんな気づきを与えてくれる。自分が進んでいる道の方向がわからなくなった時、問いが生まれる時、一人思いを巡らしたり、自分が感じたり考えたりしていることを内省する時間は必要。でも一人部屋にこもって自分のアイデンティティーをたしかめる必要はもはやない。それでは、自分が思い描いている自己像の輪郭をなぞることにしかならない。自分という存在は自分一人で完結できるようなものではなく、まわりの人たちとの関係性の中で日々実感し、育てていくもの。たくさんの個と個、その背後にある精神性と向き合う中で、自分という存在がおぼろげに、時にはっきりと現れてくるだろう。どんな時も感じ、考えながら、自分のままで他者と渡り合いたい。その絶えざる関係性の中で自分の生を生きていきたい。

 ある夜、布団の中で目が覚めて、ぼうっと空を見つめていたらふと、猫と話せる女の子のことを思い出した。以前劇場で仕事をしていた時、その人は受付の仕事をしていて、たまにすれ違う時に挨拶を交わすことがあった。でも交流といえばそのくらいで、どうして突然その人のことを思い出したのかわからない。その人が劇場をやめる際、ちょっと立ち話をした時に連絡先を教えてくれて、アドレスの一部に「nekotohanaseru」とあった。実際に彼女が猫と話せるのかどうか、あの時尋ねなかったからわからないけれど、そう聞けば納得できるような、どこか不思議な雰囲気が彼女にはあった。でも僕は結局その人に連絡しなかった。そのアドレスは、当時の慌ただしい日々の隙間に消えていった。日々出会いを重ねていく僕たちの人生ではよくあること。いろんな状況の中で、誰かに何かを発して、届いたり、届かなかったり。掴んだり、受けとれなかったり。傷ついて、閉じてしまったり。何かのきっかけで、また、開いたり。そんなやりとりを重ねながら生きていく。
 目の前の扉をノックしてみる。中から人が出てきて、挨拶する。それで終わるかもしれないし、もっと奥の方で、その人の内面と出会えるかもしれない。そこで語り合えるかもしれない。うまくいけば。いま彼女に会えたら、猫とどんな話をするのか訊いてみたい。もっともっと、その人の本質に出会いたかったな。布団の中でそう思って、また眠りについた。

 気づいたら、次の日が始まっている。施設での仕事は忙しい。いろんな声が飛び交い、みんなひっきりなしに動いている。目の前には人がいて、その人の要望や訴えをできる限り汲み取りながら、時間や物理的な制約がある中でルーティン・ワークをこなしていく。肉体的な疲れがのしかかったり、自分一人ではどうにもならない物事にぶつかってやるせなさを感じる場面もある。それでも、せっせとできることをやる。いまに集中し、歩みをとめない。たくさんの顔に囲まれながら、一瞬でもいい、目の前の相手と「通じあえた」と感じられるきらめく瞬間を追いかけている。