toggle
2019-11-26

Letter 15 − 今年の夏 − otto & orabuの練習

 朝、磯に行って波間に潜った。今年海に入るのはたぶんこれが最後になるだろう。波が高くて水も少し冷たかったけれど、なんだか身も心もまるごと洗われた。
 陽が昇ってきた。急いで着替えて、アムアホールへ向かう。今日はotto & orabuの練習日だ。ちょっと遅れていたので焦りながらホールの扉を開けると、いつもの風景がそこにはあった。
 「おっす」と行ってマミちゃんが僕のところに挨拶に来てくれる。そして「どうもどうも」と敬礼、マミちゃんとのあいだでお決まりになったいつもの挨拶。
 コウセイくんとハイタッチ。その横から「ねえねえ」と言ってキさんが話しかけてくる。愛嬌のあるいつもの笑顔で。昨日はソフトバンクが勝った、ジャイアンツが勝った。野球の話をしている。昨日テレビで野球を見たのだろう。僕はテレビを見ないので、へぇ、そうなんだ、と聞いている。タイミングがあれば、一言二言僕もコメントを返す。けれどキさんは自分の話したいことを次から次へと話すものだから、僕はウンウンと相槌を打っていることが多い。
 「ほりのうちさん、おはよう」コオリヤマさんがニコニコしながら歩いてくる。「元気ですか」「元気ですよ」挨拶を終えると、話はウルトラマンの方へ向かっていく。MAC隊長やら、モロボシダンやら。僕は全然わからなくて、話についていけない。けれどコオリヤマさんはいつも僕にその世界のことを質問してくる。僕は「コオリヤマさんの方が詳しいと思うんだけどな」と返すことしかできない。ウルトラマンのことがほんとうに好きで、ウルトラマンの世界についていつも誰かと話をしていたいのだろう。

 そんなやりとりがあって、内心にあった焦りとか不安は吹き飛んでしまう。みんないつでも「ありのまま」でそこにあって、誰かと比べることもなければ、自分をよく見せようとすることもない。そんな彼らの存在に救われているなと思う時がある。たぶん無意識的なものだが、僕たちは常に誰かと比べ、まわりの人たちを意識しすぎている。それで不安になったり、劣等感を抱いたり、逆に優越感をもったりする。他者と比べて自分を見つめることも人間の心の働きなのだろうけど、それが大きくなりすぎることで僕たちは自分を見失い、バランスが保てなくなる。自分がどうあるかよりも、他者にどう見られるのかを気にして逡巡している時、心を覆うモヤモヤを吹き飛ばす無垢さが彼らにはある。みんなと話していて、こんな自分でもいいんだと素直に感じられる。そしていま、自分の居場所はここにあるんだと思える。

 音が鳴っている。ギターの音、ジャンベの音。ドラムの音。話し声、笑い声。僕はステージに上がってピアニカを手に持ち、マウスピースを咥え、パイプに息を吹き込みながら鍵盤を押さえる。ピアニカの音がする。音を出すと、自分の状態がわかる。今日は調子がいいとか、疲れているな、とか。最初はゆっくり、音を選んで鳴らす。聞こえてくるギターやドラムの音に乗せたり、弾いてみたいフレーズを試したり。あとは何も考えずに鍵盤を鳴らす。

 園長の一声で練習が始まる。園長の言葉かけは場を和ませ、また引き締める。文字通り、コンダクターの役割だ。全体の「気」を高めながら、細部にも気を配り、個々の素材をいい具合に調整していく。
 今日は「ポンピドウ」からスタート。軽快な曲で、一度そのフレーズを聞いたら耳から離れなくなる。園長は練習の途中で楽曲のイメージを短く端的に語る。その言葉によって一気にイメージが膨らみ、自分の演奏が変わっていく。「ポンピドウ」はサーカス小屋にいるピエロのイメージなんだそう。それを聞いて、僕はフランスかどこかの町外れにあるサーカス小屋を想像する。扉を開けると中は薄暗くて、そこに道化師が佇んでいる。彼はどんな表情をしているだろう?どんな小屋だろう?そこでこれからどんなことが起こるだろう?
 イメージを膨らませつつ、自分のパートをしっかり吹き切らないといけないから忙しい。「ポンピドウ」と「オーボンビュータン」はピアニカが主旋律を弾いているから、出だしのタイミングを押さえなければならない。「ポンピドウ」はテンポが速いのでちょっと緊張する。曲の中盤、ピアニカが即興に入るところで、僕は思い切り息を吹き込んで鍵盤を叩く。ここでは音階の正確さよりも、エネルギーとタイミング、音のうねりのようなものを要求される。ピアニカを吹きながら、園長を見る。「もっと!」と園長は手で合図している。自分のリミッターのレベルが少しずつ上がっていく。もっと出していいのね、これでどうだ。あらん限りの力で息を吹き込む。園長を見る。「もっと、もっと!」。僕は目を閉じ、思い切り無造作に鍵盤をたぐる。すべて出し切る。これがすべてなのか、自分でもわからない。次はもっと大きな「すべて」になる気がする。「ポンピドウ」、終わり。

 次はアフリカをイメージした曲、「マカンガ・ブエンゴ・アベベキーラ」。マカンガさん、ブエンゴさん、アベベキーラさんというのはアフリカ人で、園長の友人なんだそうだ。想像上の。彼女たちがジャングルの中を分け入り、冒険をする様をイメージする。僕はピアニカの他に、バラフォンという楽器を担当している。西アフリカ発祥の木琴で、木の板の下に音を共鳴させるための瓢箪(ひょうたん)がぶら下がっている。西洋楽器であるピアノのようにドレミがはっきりした音階ではなく、どの鍵盤を叩いても他の音階とぶつからない。言うなれば、より「自然」に近い音がする。メンバーたちは他にも、ジャンベやガムラン(鉄琴)、木琴、バンブー、割れ目太鼓、ウドゥといった民族楽器を弾いている。どれもアフリカやインドネシアの島々、中央アメリカなどに古くから伝わる楽器たちだ。
 以前キさんが食堂で、僕に話してくれたことがある。「ottoのおんがくはね、森からたくさん動物たちが出てきて、その動物たちといっしょに音を鳴らしたりうたったりするの。そんなイメージ。」ニコニコしながらキさんはそう話した。そのイメージはなんだかしっくりきて、僕の中でotto & orabuの像が明確になった。ottoで演奏を始めた頃はバラフォンの叩き方がわからず、楽器にも馴染んでいなかったけれど、キさんの話を聞いてから演奏の時に物語をイメージできるようになり、周りの音も聴く余裕ができてきたら、少しずつ叩き方がわかってきた。
 物語を自由にイメージしながら演奏するのはたのしい。鬱蒼としたジャングルを頭に思い浮かべながら、葉が揺れる音、虫の音、動物の唸る声などをバラフォンで表現しようと試みる。そうすると自然に、叩き方が変わってくる。大きく叩いたり弱く叩いたり、バチで表面を撫でてみたり、連打したりしてみる。
 僕の右隣には、マリンバを担当しているヒトミちゃんがいる。ヒトミちゃんは、マリンバを弾くのがとても上手。時々自分のレパートリーの中から好きな曲を弾いている。練習中、otto & orabuの曲の最中でも、隣からちがう曲が聞こえてくることもある。
 ヒトミちゃんは、弾きたくない時にはマリンバを弾かない。どこか浮かない表情をしている。そしてたのしい時には(僕にはそう見える)、とびきりたのしそうに演奏する。その表現の仕方がとても素直で、僕はとてもいいなと思う。それこそ音楽を生きたものにする要素のように思えて、指揮に合わせようとする僕の隣で音と戯れ、気が向かない時には演奏をしない彼女の姿勢を、手本のように思う。
 ドラム缶の音が響いて、曲の後半へと流れ込む。この曲はここからとても野性的になる。orabu隊が後方で文字通りおらぶ。おらぶ、というのは鹿児島弁で叫ぶ、の意。「ジャンゴ!ジャンゴ!」Jungle Jungle! その叫びがストレートで明け透けで、演奏中でも思わず笑ってしまう。その叫びとドラムのリズムに乗せて僕はバラフォンの鍵盤を思い切り叩く。

 アフリカ・シリーズの流れで、次は「orabu AFRICA」。数あるotto & orabuのナンバーの中で、おそらくこの曲がいちばん盛り上がる。割れ目太鼓の緩やかなビートに合わせて、orabu隊が一人ずつ渾身の叫びを発する。その声を聞きながら、自分の内なる野性が少しずつ解き放たれていく感覚に陥る。日常生活で、ましてや仕事中にこんな感覚になることはまずない。裸になってさらけ出される他者の声と姿があって、それに触発されて自分自身の精神もオープンになっていく。
 orabuの叫びのパートが終わったら、打楽器が加わりたくさんのビートが刻まれていく。この曲では僕はカウベルを叩いている。金属でできた黒い箱が三つ上下に並んでいて、それぞれ音の高低差がある。僕はカウベルをジャンベのグループといっしょに叩く。ドラムのソロがあり、木琴を叩くヒトミちゃんのソロがあり、ビートに合わせてコマツオくんのダンスが炸裂する。ひとつの曲が、生き物みたいに大きなうねりを伴って進んでいく。
 一度として同じ演奏はない。その時のメンバーのコンディションや感情がぜんぶ演奏に反映される。音が気持ちよくひとつにならなかったり、思いがけずいい音が鳴ったり、演奏途中でハプニングがあったりする。園長はその場で起こるひとつひとつの出来事に反応し、拾い上げる。園長を見ていると、身体と頭と心がつねに動いていて何かをキャッチし、それに応答しているように感じられる。その臨機応変さに感心する。園長が「良い」と思った様々な要素は曲の中に取り込まれ、少しずつ曲の輪郭が明確になっていく。また、それぞれのメンバーの鳴らす音が多様さと複雑さを生み、曲を生きたものにする。
 曲の終盤、シンバルが刻むリズムが引き金となって、全ての楽器とorabuの叫び声がひとつの方向へ突き進んでいく。僕は冷静さを保ちながら自分のビートを刻もうと努めながらも、ほんとうに全体が、すべての音が一体となっていると感じられた時に、ふっと永遠性を見ることがある。目の前にすっと地平線が現れて、どこまでも見渡せる、そんな感覚。そういう時、演奏しながら、ちょっと涙ぐんでしまう。それはほんの一瞬のことだし、曲が終わって、片付けをしてホールを後にすると忘れてしまうのだけれど、たしかにそういう瞬間があるのだ。otto & orabu、不思議なバンドだ。