Letter 14 − 今年の夏 − うみ 〜自分の輪郭〜
仕事終わり。友人と車に乗って、磯の浜辺へ向かう。ポータブルスピーカーから流れる曲は、旅人さんの「Rollin’ Rollin’」。
Rollin’ Rollin’ 回り続ける
レコードに 運ばれて
Rollin’ Rollin’ わからないまんま
ながくながく 流されて そう
車で山を下り、トンネルを抜けるとすぐに海岸線に出る。今年の夏、僕たちはよく磯に車を走らせては海に潜った。こんなにたくさん海に入った夏は初めてだった。職場のオフィスを出て、空一面に沸き上がる入道雲がオレンジ色に染まっていく様を見ていると、なんだか無性に海に入りたくなった。日が沈まぬうちに。夏が終わらぬうちに。僕は友人にメッセージを送る。「海に行かない？」
今年最初に海に入った日、僕は何も用意していなかった。友人と出掛けたその帰りに海にでも行こうかと、ふらっと立ち寄っただけだった。砂浜に座って寄せては返す波を見ていると、彼女は服を着たまま海に入っていった。波に浮かぶその姿はとても心地よさそうだった。そそのかされた僕は、一度はためらったものの、Tシャツとジーンズを脱いで下着のままで海に入った。水に浸かって波間に浮かんでいたら、余計なものがぜんぶ水に流れていくように思えた。海に入るなんて、学生の頃は海水浴の時期に同級生たちと行くというような「イベントごと」でしかなかった。すぐ近くに海はあったのに。こんな風に日常生活の延長上で、どこかに出かけた帰りにふらっと海に寄って水に浸かるということが僕にとっては新鮮だったし、ここはそれができる環境なんだと改めて思った。
波に浮かぶ。
藍色に染まっていく空に、星が光る。
山のシルエットが遠ざかっていく。電車の音が遠くに響いている。
静かな時間。呼吸が穏やかになる。
こんな風に波に浮かんでいると、自分の輪郭が消えてなくなっていくように感じる。意識はとてもクリアで、全身の細胞が生き生きと呼吸しているのに。
水の音だけが静かに響いて、何かおおきなものに包まれているような、護られているような感覚を覚える。ふだんの僕たちの生活が、いかにたくさんのルールや期限の中で縛られ、あくせくしているかということに思い至る。
ほんとうに大事なものはただこれだけなんだ、と思う。生きている、という実感。いまここにあるという確かな感覚。肝心なものは、笑ってしまうほどとてもシンプルなんだ。日々どんなに忙しくても、海に飛び込めばいつだってこの状態に戻れる。そしてほんとうは−−なにも海に飛び込まなくても、波に浮かんでいなくても、いつもそのようにあることができるのだ、きっと。なぜなら波に浮かんでいる感覚は、そしてその時に掴んだ確信は自分の内に消えないから。生活の中にあっても、その気づきが心のどこかにあって、折にふれてそこにアクセスできればいい。
ひとしきり波に潜った後、着替えのない僕たちは車のシートにタオルを敷き、濡れた服のままで乗り込んだ。海岸沿いを走りながら窓を開け、車内に流れ込んでくる夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。
Rollin’ Rollin’ 回り続ける
運命に 運ばれて
Rollin’ Rollin’ 忘れたまんま
知らない場所まで 流されて
このグルーヴを捕まえて
このグルーヴを捕まえて
それがすべてさ それがすべて
それがすべてさ それがすべて
それがすべてさ それがすべて
そんな夜が永遠に続けば、きれいな絵になる。ロマンチックな物語になる。
でも次の瞬間には朝がやって来て、眠たい目をこすりながら一日のスタート地点に立てば「現実」が姿かたちを取り戻す。そこにはやらなきゃいけないことがあり、課題や問題がある。僕は一瞥して、それらがそこにあることを認識する。生きて生活していく限り、どこまでもそれはついてくる。またここに舞い戻ったのかと、目的地へと急ぎながら思う。
網の目のような関係性の中にいる。いくつもの要素が絡み合い、いろんな事情を抱えた人たちが通りゆく。その中に確かに自分も存在している。いま自分がここにあるのは何の因果か。張りめぐらされた網の目の中で、しばし立ち止まってしまう。自分がどこに行きたいのか、何を探しているのか、一瞬わからなくなる。波に浮かんでいる時に感じたもの、そこでひとつの輪になったものが、心を覆う靄の中に散っていくように感じる。
自分という存在の輪郭がはっきりしてくれば、行きたい場所はどこなのか、自分がどんなものを求めているのか、だいたいわかってくる。でも、苦手だと感じていることや、解決したいと思っていてもなかなかできないことが再び目の前に現れた時、自分の輪郭線の中で行き惑い、その中に閉じ込められているように感じる。息が詰まる、苦しい。それが居ても立っても居られない衝動となって、部屋の中に閉じこもっている自分を何度も外に飛び出させた。
ここから離れたら、どこか別の場所に行けば、新たな何かに出会えるかもしれない。目の前にある現実に納得できず、自分自身からも離れたくて、どこか遠く、遠く離れた場所に行ってしまおう。
しかし、その場所を離れても、何か新しいことを始めても、その違う景色を目にし、何かをやっている自分自身は変わらないのだ。自分の内面で解決できていないことは、たぶん、形を変えてまた現れるだろう。
遠く離れた場所にはもう十分行ったよ。自分が自分である、自分でしかないという意味においては、どこにいても同じ。いまは遠い場所に行って気を紛らわせたり注意を逸らしたりするのではなく、自分が身を置くいまの場所で、目の前にあることと向き合ってみること。ものごとのあり様を見つめ、自分との距離や位置関係をしっかり把握すること。サローヤンの『パパ・ユーア クレイジー』に登場する主人公の少年みたいに。世界を観察し、問いをもち、その問いに答えていくこと。たとえいまはわからなくても。今年の夏、たくさん海に入った時間はそのことを教えてくれているような気がする。
実際、波に浮かんでいる時は、いままでにないくらい、この土地に根ざしているという感覚がもてたのだ。他のどこでもない、この土地にいま立って暮らしていることが実感できたのだ。どこか遠くに行きたくなったら、山へ出掛けて行って歩けばいい。海辺に行けばいい。街を歩けばいい。次に行くべき場所が見つかるまで。そうすればこの土地のことがよくわかり、その先につながる土地のことがわかり、さらに先へと続く場所を想像し、思いを馳せることができる。ここが世界の入り口。すべてはつながっているのだから、この土地にあって心をひくものにまずつながり、その線を辿っていけば他の何かに通じていくはず。
僕は日々、輪郭線を引き直す。いろんな出来事をくぐり抜ける度に、まわりにいる人たちとの関係性が変わる度に、輪郭は少しずつ変化していく。その線の内側で視ることの精度を高め、思考を深めていくのも、その線を超えて輪郭を広げ、変化させていくのも、どちらも自由だ。
ただ、輪郭線を超えようと思って思い切ってジャンプしてもつまずいて転んだり、簡単に超えられるだろうと思っていたその壁が厚く、どうしようもなく動かせないと感じることもある。自分で定めた線の中で、たゆまずやっていることの意味がわからなくなることもある。輪郭が変化していくその時にも、やっぱり葛藤や痛みに襲われるだろう。他者の輪郭との違いに戸惑い、傷つくこともあるだろう。その度に、打ちひしがれ、その状況から逃げたくなる。自分で自分にうんざりする。
でも、その過程を避けていては、自分の輪郭が曖昧なままなのだ。自分の輪郭が曖昧なら、世界の輪郭だって曖昧だろう。何を求めているのかもわからなければ、行きたい場所への距離も精確に測ることができない。僕が毎日の生活をこなし、日々輪郭線を引き直す理由はそこにある。自分について、世界について精確に知ること。誰かのためじゃない、自分のために、自分にとって必要だからそれをやっている。
そして、自分の輪郭線をどこまでもクリアにしていった先に、その線が消えることを夢見ている。逆説的だけど、順序はそうだと思う。輪郭線が消える−−波に浮かんでいる時みたいに。自分と、他者と、空間に境がない。すべてがひとつとしてそこにあって、分け隔てるものがない。現実の網の目の中でぐるぐると行ったり来たりしながら、そういう瞬間を僕は待ち望んでいる。
夜、部屋に一人。今日一日あった出来事を振り返る。今日という日もあっという間に過ぎ去った。
ふと、あの日波に浮かんでいる時に感じたものが、遠く離れていくような気がした。あれからそんなに日が経っていないのに、忙しい僕たちの心は絶えず変化していく。あの時のリアルな感覚と、そこに生まれたある種のバランスが消えてなくならないように、言葉をつなぐ。
星降る夜に 彷徨うふたり
裸足になって 砂浜を駆けていく
寄せては返す波に誘われて
ゆっくりと
水に身体を浸す
Deep breathing
遠く離れていく電車の音と
山のシルエット
力を抜いて
波に身を委ねて
その声に導かれ
水面に浮かんだ身体
天球に月が眠り 星は瞬く
さらさら流れていく砂
消えない哀しみも
身を縛りつける痛みもぜんぶ
この空に吸い込まれていく
さらさら流れていく砂
溶けるように 広がるように
透き通っていくこの身体
世界に抱かれている
狂おしいほどの懐かしさで
胸がいっぱいになるのは
いつかの感覚を
この肌が憶えているから
波のおと
しょっぱい水
仄くらい闇に浮かぶ身体
果てしない時を渡りつないで
この肌に刻み込まれた記憶
力を抜いて
波に身を委ねて
その声を信じ
あらゆる重力から解き放たれて
海の中心へ 自分自身の真ん中へ
Deep breathing
深く
もっと深く
きらめく願いを
海の底で感じて