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2019-11-12

Letter 13 − 今年の夏 − 地の水

 旅をする時、僕はいつもその土地の水を飲む。水道水よりも、地下水や湧水、山に入る機会があれば、川の水を飲む。そうすると身体がその土地に馴染んでいくような気がする。身体の大半は水でできているのだから、その感覚はしごく自然なことだろう。北海道の水、東北の水、関東の水、四国の水、南西諸島の水。味の微妙なちがいをたのしむというより、その土地をよりよく知り、そこに身を置かせてもらうために土地の洗礼を受ける、という感覚かもしれない。

 仕事が終わってから、同僚と水汲みに行く。何やら、いつも水汲みをしている場所があるのだそう。三人で車を乗り合わせ、その水汲みポイントへ向かって車を走らせる。六月には、宮崎との県境付近まで車を走らせ、三人で蛍を見に行った。仕事が終わってから車に乗って蛍を見に行くというのは僕は初めての体験だったけど、水を汲みに行くというのも初めてだった。同僚たちは水を入れるためのポリタンクを持ってきていて、いかにも水汲みが生活の一部、という感じがした。僕はもちろん、家にもそんな容器はなかったので、近くのホームセンターに寄ってもらい、適当な大きさの容器を探す。
 売り場を歩きながら並んだ容器を見ていたら、向こうから近所に住んでいる親戚のおじさんがこちらに向かって歩いてきた。「あ、おじちゃん」
 「あら、こんなところで。買い物ね?」「そうです、これから同僚たちと水汲みに行こうかと」
 同僚たちにおじちゃんを紹介し、しばし話をする。親戚のおじちゃんは長年教職を務め、いまは福祉の仕事をしながら、休みの日は畑で農作業をしている。作業といっても、彼はそれは道楽でやっていることだと言い、とてもたのしそうに野菜を作ったり養蜂をしたりしている。よくお裾分けしてくれる不揃いな形のキュウリやオクラやナスはとても美味しい。子どもの頃から親しんでいるおじちゃんと同僚たちがホームセンターで話している光景を見ていると、地元にいることをとひしひしと感じられておもしろかった。
 おじちゃんは水汲みに行くならこの場所がいいよと、近くの水汲みスポットをおしえてくれる。同僚たちはその場所には行ったことがなかったそうで、その日は教えてもらった方に行ってみることになった。

 15分ほどくねくねとした山道を通り、その水汲みポイントに辿り着く。石段が組まれ、その中で水が湧いている。その造りは祭壇のような趣があった。この地域の人たちにとって大事な場所なのだろう。着いた頃には日が暮れて、辺りは暗く、電灯もない場所だった。水を汲むには少し暗すぎるねと話し、またあらためて来ようとその場所を後にする。結局、もともと行く予定だったスポットへ向かう。
 20分ほど車を走らせ、その地点に着く。そちらは明りが灯り、水汲み場として設備が整えられている場所だった。車が何台か停まっていて、僕たちの他にも水を汲んでいる人たちがいた。箱に百円入れ、常時水が流れている水道の下にタンクを置いて水を入れる。いっぱいになったタンクが右手にずっしりと重い。蓋を閉め、タンクを車に載せる。この地域はむかし祖父と祖母が暮らしていた土地だ。おそらく先祖代々、この場所で生活を営んできたのだろう。その生活を支えてきた、地の水。

 翌朝、その水を水筒に入れ、職場に持っていく。その水を口にする時ふと、山を思う。そこに降り注いだ雨と、その雨を染み込ませた土を思う。長い時間をかけてその土に磨かれ、地中から湧き出した水。その水を飲むと身体が調整され、飲むほどにこの土地に馴染んでいくように感じる。