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2019-11-12

Letter 11 − 今年の夏 − ピアノリサイタル

 シュタイナー青年講座が終わったら急いで会場を後にし、市街地にあるホールに車を走らせる。今夜は、田島良一先生のピアノリサイタル。いま週に一回ほど、ジャズピアノの理論を先生に教わっている。今日は年に一度のコンサートで、毎年この時期に開催しているのだそう。
 僕はピアノのコンサートが好きだ。ピアニストが一人、ピアノに向かって音楽を繰り広げる場に立ち会うのが好きだ。大学生の頃、ポートランドに住んでいた時にはホストファミリーがダウンタウンにあるホールで開催されていたピアノコンサートに連れて行ってくれた。東京でも時折、音楽好きの友人たちとコンサートやライブへと出掛けた。親しい友人たちと、音楽を聴きに夜の街へと繰り出すのは、人生でもっとも心踊ることのひとつだ。
 この日のリサイタルではジャズスタンダードを中心に、ポップスや童謡、先生のオリジナル曲も聴かせてくれた。少し遅れてホールの扉を開けると、ピアノの音が響いていて、観客たちはそれぞれの席について音に耳を傾けていた。僕も席を探し、中央あたりの椅子に腰掛けて先生のピアノに耳を澄ませた。
 先生の演奏は、一音一音がとてもクリアだった。細かい強弱や緩急がはっきりとあって、音の幅が感じられる。和声の響きやメロディーの美しさを純粋にたのしむこともできたし、ダイナミックであり繊細な演奏が連想させる情景を気の赴くままに追いかけることもできた。先生がその場で生み出す一つ一つの曲の世界に浸ってそこを泳ぐことが心地よかった。そして、ピアノという楽器は、こんなにもたくさんのことを表現できるんだということを改めて教えられた気がした。

 コンサートの中盤。次の曲です、と先生がタイトルを告げて、鍵盤に手を置く。Bill Evansの“Peace Piece”。Evansは先生が敬愛するジャズピアニストの一人だ。静かに曲が始まる。僕は演奏に身を委ねるようにして、そっと目を閉じる。

 暗闇に、水の層が現れる 
 円形の湖のよう
 ぼくはその湖の真ん中に立っている
 自分を中心にして、波紋が広がっていく

 空気は澄み渡り、静寂を破るものはここには何ひとつない
 静かな風が吹いて、その水面にさざ波が立つ
 
 Peace.

 …… 平和。平穏。
 平和ってなんだろう?
 
 穏やかさ。安らかさ。
 いや、それは退屈さと何が違うのだろう?
 平和とされる時代に生きる人たちは、心に平和を感じているのか?
 
 変わり映えしない毎日に
 間延びして呆けてしまった感覚が刺激を貪る。
 満たされない心が置き去りにされる。

 「私が子どもの頃、日本は戦争をしていました。毎日の生活はとても大変でした」
 「それに比べたら、いまは何だってできる世の中になりました」

 平和とされる時代にあって、教室の隅で言葉を発せない子どもは何を頼りにしたらいいのだろう?
 虚ろな目をした人々はこれからどこに向かうのだろう?

 心にしのび寄る灰色の影、それは死。
 見て見ぬ振りをして人が立ち去る
 そこに残った小さな悪が、か弱きものの命を奪っていく。

 そうじゃない、わたしたちが為そうとしていたことは。
 そうじゃない、わたしたちが焦がれ、夢中で追いかけていたものは。

 揺れる水面は、いつしか青い炎に変わる
 それは円の縁まで一瞬にして燃え広がる

 青い炎の渦の底から、呻き声が聞こえてくる
 青銅色の虚空に火花が散る
 人間の苦悩
 闇の中で見えない敵に向かっても、
 放った拳は空を舞う

 痛みを知らない心は平和を知ることはない
 平穏さに手を伸ばそうとするのは、傷だらけの身体
 闘っているその敵は
 自分自身

 みどりは燃え、海と混ざりあう
 いつしか炎は消え、水面に立つ一人の人

 途方に暮れて座り込んでいた彼は
 ふと顔を上げる
 握り拳をほどいて、
 道具を握る
 叩く、削る、組み立てる
 書く、描く
 抱きしめる

 その時心に感じる
 この感情は何だろう?
 歓喜!歓喜!
 あぁ、これがおれが欲しかったものだ
 
 平和とは、築かれた礎。
 数多の苦しみと犠牲の上に

 平和とは、
 一人の人間の心に訪れるもの。
 夜ごと訪れる葛藤を乗り越えた末に

 その上でしか立ち上がらないものがある。
 その上でしか成し得ないことがある。
 そこでつくり上げていくのだ、
 ぼくたちの 
 
 
 静かに曲が終わった。最後の和音が空間に余韻を残す。

 プログラムの最後の曲は、七夕の唄だった。子どもの頃うたった、「笹の葉さらさら」のあの曲だ。明日は七夕。いまは亡き、大事な人に捧げる曲だと先生は語り、ピアノを弾き始めた。七夕のメロディーはいつしか『星に願いを』に華麗に変わり、そしてまた、七夕のフレーズに戻って曲が締めくくられた。拍手の中、ついさっきまでそこにあった静かな和音が心に消えてしまわないようにと願った。今夜先生がピアノで語ったこと、それを間近に聴きながら心に思い浮かべた情景を握りしめたまま会場を後にした。