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2019-10-23

Letter 10 −トランジション− シュタイナー青年講座のこと

 今年の春、小さな学校に出会った。たぶやスダジイの大木、生い茂る植物に囲まれて、手作りの木造校舎が立っている。庭の一角には柵の中でヤギが草を食みながら、のんびりと佇んでいる。庭は落ち葉が積もった斜面に連なり、敷地にはブランコやシーソーや、木から吊り下げられたロープがある。この場所全体が子どもたちのあそび場なのだろう。
 初めてその学校を訪れた日は雨が降っていた。緑の中を歩いていると、校舎の窓から子どもたちが顔を覗かせた。何人かの子どもたちは休み時間になったのか、外に飛び出してきた。八~一〇才くらいだろうか。僕はそのくらいの年齢の子どもたちに久しぶりに会った気がした。屈託のない笑顔を見せる子、おずおずとした様子で、それでも好奇心を顔に浮かべている子、はきはきと話す子、奥の方から僕の様子を伺う子。いろんな反応があった。でも子どもたちの様子から、とても自然で、無垢なものを僕は受けとった。
 案内されて校舎の中に入ると、建物はもちろんのこと、子どもたちが使っている机も椅子も木でできていて、あたたかみが感じられる。いちばん広い部屋の黒板には「音響学」と書かれている。音響学という授業を僕は学校で受けたことがない。子どもたちはこの教室でどんなことを、どんな風に学ぶのだろう。
 校舎や庭を見た後、園長先生がこの学校のことを説明してくれた。彼女はゆったりと、ときにユーモアを交えて話をしてくれた。この学校は、ドイツの教育者ルドルフ・シュタイナーの思想をベースにした教育を行っていて、幼児部と小学部、中学部に分かれ、現在40名ほどの子どもたちが通っている。中にはハンディキャップを抱えた子どもも通っているが、別の教室に特別に学級を作ったりせず、みな同じ教室で学んでいる。ここでは教室の中で行う授業だけでなく、課外活動もさかんに行っている。近くの公園までサイクリングしたり、上級生たちは屋久島や霧島に行ってキャンプしたりする。キャンプの計画は子どもたち自身が話し合いながら決め、交通手段を考えたり切符をとったりるするのも自分たちでやるのだそうだ。自然の中で思い切りあそんだり、自分がやりたいことや、行きたい場所に行くための計画を自分で立てたりするところは、プレーパークの精神と通じるものがあると思った。
 ところで、あなたはどうしてこの学校に興味をもったのですか、と彼女に尋ねられ、今度は僕が、自分のこれまでのことや、いま考えていることを語る番になった。

 この土地で生まれ育ったこと。ピアノを弾いたり、絵を描いたりすることに興味をもつ子どもだったこと。四才の頃、母親に連れられて初めて観に行った劇の世界観に夢中になったこと。その時の、どこまでも広がっていくような想像力と、身体の奥底から湧き出すようなエネルギーをいまでも覚えている。しかし小学、中学、高校と進むにつれて、子どもの頃ほんとうに好きで、夢中でやっていたことに心が向かわなくなったこと。大学進学を機に上京し、そこで初めて、本気になって自分がやりたいこと、好きなことをあらためて探し、そのことと向き合ってみたこと。(それは結局、子どもの頃無心でやっていたことだった。)舞台表現のゼミに入り、物語を書いたり、音楽を作ったり、演出法を考えたりしながらゼミ生たちと舞台を作った。大学を卒業した後も、場所を転々としながらも追いかけていたのは結局表現をすることで、物語をつかみ、そして自分なりの方法でそれを語るということに挑戦してきた。
 いま振り返ってみると、大学時代必死になってやっていたことは、自分自身に立ち戻る、ということだった。自分でないものから自由になる、と言った方が近いかもしれない。自分の内面で起こっていることをつかみ、理解しようとすること。たとえ理解できなくても、どんな時も自分自身であろうとした。そのことさえ習得できたら、望んでいる場所に到達できるのではないか。もちろんそれは簡単なことではなく、何度も壁にぶつかることになるのだが。
 昨年の秋、生まれ育ったこの町に戻ってきた。自分の内なるリズムを取り戻し、活動の拠点となる場所をつくりたかったから。僕はシュタイナーについてはほとんど何も知らないけれど、その考え方や教育のアプローチには現在の一般的な学校教育で見過ごされている大事な要素があるのではないかと感じている。その要素をたぶん、僕自身が必要としている。だから僕は今日、ここに来ました。・・・

 園長先生は、僕の話を熱心に聴いてくれた。「あなたは自分のことを自分の言葉で語っている、そのことがとてもよいと思います」と彼女は言った。そして、一つの提案をしてくれた。
 「七月に、シュタイナー教育に長年従事され、活動されている竹田喜代子先生がこの学校にやって来ます。その時に私は、若者たちが集まって語り合う場を作りたいと思っています。竹田先生の講演会はこの学校でも何度もやっているけれど、青年の集いは今年初めての試みです。あなたもその場に参加しませんか?」
 参加者は、この学校の卒業生たちが中心。現在公立高校に通っている生徒たちや、高校を卒業し、留学を控えている学生。それから、もう社会人として働いている方も参加する予定とのことだった。
 「はい、ぜひ参加したいです」と僕は答えた。
 「私の希望としては、あなた自身が主体となって、この集まりをまとめてもらえたらうれしいのだけれど」と園長先生は続けて話した。ただ講座に参加するだけでなく、自分たちでこの講座の中身を作り上げていってほしいというのが、園長先生の希望だった。同世代の人たちが、自分自身について考え、それを他者と共有し、語り合う場。それはいま自分が必要としているものだと思った。
 「わかりました、やってみます」

 講座の日程は七月六日。それまでに複数回集まり、参加者が現在の自分について、感じていることや考えていることを自分の言葉で語る場をもった。そして、今回の講座で先生に質問したいことや、テーマにしたいことを話し合った。その場に集まった高校生たちは三人、大学予備生が一人、学校を卒業し、社会に出て働いている大人が僕も含めて二人だった。そこに、この学校の先生たちも参加すると、大きなテーブルを囲むほどの人数になった。
 十代の学生たちは、いま参加している部活動のことや、進路選択での迷いについて語った。勉強しながら、もう働いている生徒もいた。彼は職場での先輩や後輩との距離感や、コミュニケーションのことで悩んでいると話した。シュタイナー学校を中学部で卒業し、今年公立高校に進学した生徒は、あたらしい環境で感じる、それまで慣れ親しんだ場所とのギャップについて語った。
 みな自分のことを冷静に俯瞰し、いまの状況や自分の感じていることを自分の言葉で語っていた。うまく言葉にならなかったり、次の言葉が出てくるまでの間も、「現在」に立つ彼らの戸惑いや揺れを、そのまま表しているようだった。彼らの話す姿を見ていて、同じ年齢の時自分はどうだったかなと、過去を振り返らずにはいられなかった。
 僕も自分の現在について、そして彼らの話を聞いていて感じたことを語った。僕と同年代の参加者はハルカさんといって、この学校の幼児部の卒園生だった。彼女は公立の学校に進み、大学を卒業して勤めた公務員の仕事を辞め、現在は自分が長年やりたかったことを実現すべく準備をしているのだそうだ。彼女は公立の学校生活で体験したことや感じてきたことを語った。それは、この学校を卒業し、現在公立高校に通っている生徒たちの体験や感じていることにも通じるところがあるようだった。

 今回講座に参加するにあたり、僕はシュタイナーについての本を図書館で調べて借り、何冊か集中して読んでみた。日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巌さんの著作が中心だった。ベーシックな教育理論やその実践方法については理解できたが、思想の深いところを語っている本は、言わんとしていることはわかりそうで、よくつかめなかった。
 僕の興味を特に引いたのは、自分の内面やアイデンティティへの向き合い方。著者は本の中で、内面の一番底には鏡が貼られていて、記憶した内容と現在体験していることが内面の中の意識の鏡に映し出されている、と書いている。しかしいくら自分の内面を旅してみても、結局は外の世界を再現している世界と向き合っているに過ぎない。本当の内面への旅は、その鏡を打ち破ることから始まるのだ、と。

・・・本当の内面への旅は、アイデンティティの背後に参入する。自己を確認するのではなく、いわば自己を超越して、さらに自分の内部に入っていかないと、内面への旅にはならない。・・・ 

 シュタイナーの思想には、直接的には今回初めて触れたが、そこに書かれている精神性は、僕がこれまで触れてきたものの世界観に通じるものがあって驚いた。例えば、好きな作家が語っていることや、彼の小説の中に生きる主人公のあり方。教育の考え方や、人間や自然に対する見方もうなずけるものが多かった。いや、もしかしたらもっと以前、子どもの頃連れられて観に行っていた劇にもその思想に通じる要素があったのかもしれない。そういえば、昨年訪れた岩手のエコビレッジでもシュタイナーという言葉を聞いていた。本棚にはシュタイナーに関する本がたくさん置いてあって、その農園の主人もシュタイナーが提唱したバイオダイナミック農法を取り入れていると話していた。今回シュタイナーについての本を読み、学校では同世代の参加者たちと対話を重ねながら、僕は今回の講座でテーマにしたいことを問いの形にまとめてみた。

■日常の中で、どのようにして感覚を研ぎ澄まし、自分の内面を深めることができるか。

・・自分の過去を振り返ってみたときに、感覚が変化したことを実感したタイミングがあった。例えば、自然の音がとてもクリアに自分の内側に入ってきたり、本を読んでいて言葉の意味が迫ってきたり、音楽を聴いていて音の響きがそれまでとは変わって聴こえたり。いま思えば、それは自分の視点やあり方が変わるというような、内面の変化にもつながっていたと感じる。内面世界を深めるために感覚を研ぎ澄ますことが必要なのだとしたら、日常生活の中でどんなことを意識したらいいのだろう。

■自分の存在を懸けて何かに取り組む、自分を超えたものに挑む、というような姿勢を身につけるには。

・・我を忘れて何かに没頭することに子どもの頃からつよい憧れをもっている。自分がそういう状態にあれたら、この人生において何かに命を懸けて取り組む、というような姿勢も手に入れられると思う。しかしそれをブロックするような心の働きも感じる。そういう障壁を越えて、自分が目指す生き方を実践するための心構えを学びたい。

 講座当日。晴れて気持ちのいい朝だった。学校で竹田喜代子先生に初めてお会いする。八十歳を超える方で、シュタイナーの音楽療法士。どんな人なのか全然想像がつかなかったけれど、実際に先生を前にして、その若々しさにまず驚いた。背筋がぴんと伸び、声にも張りがある。ゆっくりと歩く姿は、地に足がついて「しっかりと立っている」という印象を与える。講座が始まる前、先生は僕の目をしっかりと見て、「今日はよろしくお願いします。楽しみにしていました」とにこやかに話された。教室には、この学校の生徒たちや、彼らのお父さんお母さん、年配の先生方が集まった。お母さんに抱っこされた赤ちゃんもいた。参加者は、教室の中に大きな円を描くようにして並べられた椅子に座った。

 「聴く、ということはとても不思議な体験です」窓の外の緑を眺めながら先生は話した。「鹿児島だったら、こんなに自然豊かな環境の中で暮らせるのだから、身体の中にいい音がたくさん入ってくるでしょうね」
 たしかにこの土地には他の都市と比べて自然はたくさん残っている。でも自分の耳は、どれだけその自然が発する音をつかんでいるだろうかと思った。近くに森や山があっても生活圏はコンクリートに覆われていたり、自分の意識が向かうことがなければ自然界の音も捉えられるはずはない。どんな場所にあっても、現代社会で外界の音に耳を澄ましながら生活することはそんなに簡単なことではないなと僕は思った。
 午前中は、竹田先生による「響きの体験」ワークショップ。先生はまず、銅板でできた丸いゴングを紹介された。バチで叩くと心地よい音がする。シュタイナーの音楽療法でよく使われる楽器なのだそう。五、六人前に出て輪になって並び、一人一人ゴングを手に持ち、先生の合図に従ってそれを鳴らす。その響きに耳を澄ませる。今度はその音を、輪をつくっている他の人に渡すように目で合図を送りながらゴングを鳴らす。その合図を受け取った人は、自分の楽器を鳴らし、その音をまた別の誰かに渡す。輪の中で、音の交換が行われていく。
 ゴングを使って音を出したあとは、木の棒や、石や、金属の棒をそれぞれ持った人たちが輪の外側にもう一つの輪をつくり、グループごとに音を鳴らした。それぞれの音を聴いていくと、その音色はグループごとに全くちがった。金属の音はどちらかというと抽象的な、宇宙的なものを連想させ、木や石は自然界のものを思わせた。
 僕は鳴っている音を聴きながら、自分のいまの状態に意識が向いていくのを感じた。ちょっと身体が疲れている。前の日は忙しく、仕事がハードだったからだと思う。眠気も感じるし、感覚が少しぼんやりしている。目を閉じて、自分の呼吸に意識を向けてみる。ゆっくりと息を吸ったり吐いたりを繰り返すことで、身体と心がほぐれていくような気がした。
 ふと、それが自分を「調律」することなのかなと思った。自分の内側で起こっていることにもっと敏感になって、自分の内面と対話してみる。外界の音を注意深く聴くことで内面に通じていくというのは、考えてみればなんだか不思議なことだ。自分の内面に注意を向けられたら、他者が発する音にもより敏感になれる。自分が発した音を誰かが受け取ってくれて、誰かが発した音を自分が受け取る。輪の中で耳を澄ませば、あまたの音の響きあいが目に見えるように感じる。
 ふだんの生活も、きっとこうなんだ。自分が忙しい状態にあって自分の内面に意識を向ける余裕がなければ、他者の発する音も受け取れないし、目の前で起こっている音の響きあいにも気づかないだろう。それはとてももったいない。日常生活の中にあっても、もし自分の発する音を知り、他者の発する音を聴いて、互いに心地よい音を発することができたら、そこに美しいハーモニーが生まれるはず。そういう風になされるコミュニケーションはそもそも誤解やすれ違いが少なく、幸福に満ちたものになるだろう。
 「音というのはただ耳で聴くものではないの。身体全体で感じるものなんです」響きの体験を終え、感じたことを参加者がそれぞれ伝え合ったあと、先生は言った。「現代社会では視覚が優位になっています。でも聴くことをおろそかにしていると内面のことになかなか注意が向かなくて、不調を訴える人たちがたくさん出てきます。自分の内面をないがしろにしているけれど、それに気づかないのですね。音を聴く、というと音楽のことばかり考えてしまいがちだけど、まずは自分の身の周りにある音をしっかりと聴くことを心がけてみましょう」

 午前のワークショップが終わり、昼休み。ハルカさんと昼食をとりに出掛けた。近所のパン屋に行って、クリームサンドイッチを買う。この店は、子どもたちをシュタイナーの学校に通わせるためにこの町に引っ越してきたという主人が開いのだそう。近くにあった公園のベンチに座り、パンを食べながら話をした。同世代で、自分の内面のことや、過去や未来について話ができるというのは貴重ですね、と彼女は言った。そういう機会はあるようで、なかなかない。こういう風に引き合わせてくれたなっちゃん先生に感謝しないといけませんね、と。なっちゃん先生というのは、園長先生のことだ。彼女は幼稚園の頃から園長先生のことをなっちゃん先生と呼んでいる。
 道路を隔てた向こう側には、青々とした森が広がっている。すぐ隣を県道が通っているが、急な勾配のある土地だからこの森は開発されずに残っているのだろう。たぶん、何十年も何百年も、もしかしたら何千年も前からこの森はこうしてあるのかもしれない。この土地にはまだこんなに大きな自然が残っているんだと、目を開かされた思いだった。シュタイナーの学校だって、ずっとこの町にあったのについ最近まで知らないままだった。道を分け入っていけば景色は変わる。思いがけない場所に出て、思いがけない出会いがある。そういう出会いを重ね、一つひとつをつないでいくことが、豊かな世界に生きるということなのかもしれない。

 午後は青年講座。高校生から三十代の若者たちが主体となって自分たちでテーマを決め、先生と語り合うという企画だったが、この学校に通う生徒やお父さんお母さん、先生たち、地域に住む方などたくさんの人たちが参加することになった。午前と同様、教室の中に大きな輪をつくって座り、対話する形で講座が始まった。なぜこの講座に参加しようと思ったのか。自分の現在の関心ごとは何か。一人ひとり語っていった。
 対話の中で先生は、シュタイナーの人間観について基本的なことを教えてくれた。ひとりの人間が成長する典型的なタイプとして、七年の周期で次のステージへ進むという見方がある。この見方では、肉体がこの世に誕生してから七年で、エーテル体とシュタイナーが呼ぶ生命体が誕生し、また七年経つとアストラル体とシュタイナーが呼ぶ感覚体が誕生する。そして、二一才になってやっと自我が誕生する。その後七年ごとに、感性の発展期、知性の発展期、意志の発展期へと進んでいく。この周期のどこにいま自分が立っているか、先生の話を聞きながら確認した。先生はどんな子ども時代を過ごしたのですか、という高校生の質問に対しては、先生は実体験を交えて話してくれた。
 「私が子どもの頃、日本は戦争をしていました。毎日の生活はとても大変でした。ところが私が小学校を卒業する年、終戦を迎えたのです。それからいろんなことが、いっぺんにひっくり返りました」その場に集まった皆が先生の話にじっと耳を傾けていた。「それに比べたら、いまは何だってできる世の中になりました。私もいま、やりたいことをやりたいようにやっています。まさに自由です。それは本当に恵まれていることだと思います」
 高校生たちからも意見があった。いまは目の前に決められた進路があって、その道以外の選択肢が与えられていないように感じる。でも、周りがそういう風にしているから自分もそうするのではなく、私は自分の意志で進路を決めたい、と彼女は話した。
 しばらく学校に行っていなかったという高校生も参加していた。彼は当時の状況や、いま自分がどういう考えをもっているかについて、自分の言葉で語っていた。若い世代の声を聞いて、お父さんやお母さんたちからも意見や質問が出た。他者の発言も皆自分のことのように捉え、それに対する自分の意見を素直に語っているように思った。時間が経つにつれ、語られる内容が少しずつ深まっていくのを感じた。

 人の生に悩みは尽きない。それぞれの年代ごとにそれぞれの知覚があり、思考があり、苦しみやよろこびがある。対話することで、そのことが理解される。道を進むために頑なに前だけを向いていた意識に風穴が開けられ、ふっと視界が開ける。隣の人の話や向こう側にいる人の声に耳を傾ける。その人が見ている景色を想像する。中高生たちの現在は、自分の過去に通ずる。(あの頃自分もおなじようなことで悩んでいた。不安でいっぱいだった。でも向こう見ずに、ただ未来だけを追いかけていた。)老年者の現在は、自分の未来を想像する糧になる。(この人はどんな道を、どんな風に歩んできたのだろう。)おなじ場所にいても、立っている地点がちがえば見ている世界も変わる。誰もがそれぞれの日常を、それぞれの感受性とともに生きていることを知る。でも人間として、共有している感覚や感情、思いもたしかにあると再確認する。

 「地域にこのような場があり、集まりがあるというのは希望です。日本のあちこちに、もっとこういう場が増えていけばいいのだけど」講座の最後に先生はそう語った。多様な価値観をもついろんな世代の人たちが集まり、ともに語り合う場が自分にとって必要だと思うし、またその日集まった人たちも求めているのだろうと感じた。そのような場や機会をあちこちにつくり、そこで互いに何かを交換していけたらいい。互いの内面と内面が出会い、響きあい、そこからあたらしいものが生まれてくるかもしれない。
 あっという間に時間は過ぎ、講座が終了した。前もって自分で立てた問いを先生に直接質問するには時間が足りなかったが、対話の中で、また先生の話の中からヒントを得ることができたと思う。人生の中で何か問題が起こっても、困難が自分の身に降りかかっても、そこから目を逸らしたり逃げたりするのではなく、「自分の課題」として取り組むことで、誰のものでもない自分の人生を生きる気概をもつことができる。そしてひとつずつ課題を乗り越えていくことで、自分に自信がついていく。内面への旅の準備は、きっとそのようにして行うのだ。