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2019-05-05

「しょうぶ学園」で働きます

 実家に帰省する度に訪れている場所があった。鹿児島市近郊、吉野。家から菖蒲谷へと向かう坂道を歩いていくと、しょうぶ学園の入り口が見えてくる。園庭に植えられた樹木には鳥たちが集まり、池やビオトープを覗き込めば小さな生き物たちがいて、ツリーハウスの前ではロバや羊がのんびりと草を食んでいる。そこにいる人たちはそれぞれの時間を思い思いに過ごしながら、穏やかな時間を共有している。僕はそこに行くと、いつものびのびと呼吸できるような心持ちになった。
 以前ここを訪れた時、いろんな鉄材のパーツを組み合わせてできた大きな卵型のオブジェが目に入り、その下に「幸福を、不確実な未来ではなく日々の暮らしに見出す」というようなことが書かれているのを見て、帰り道、その言葉を心の中で反芻しながら歩いた。日常に舞い戻ってからも、その言葉がずっと頭の片隅に残っていた。日々の暮らしがそのまま人生になっていくのなら、その時間こそもっと豊かなものにしたい。自分が求めているものを暮らしの中で掴み、育んでいるという実感がもてれば、そこからエネルギーが生まれ、あらゆることに波及していくだろう。いまの生活でないがしろにされているものがあって、でも、ほんとうはそれをもっとだいじにしたい。そういうものが、少しずつ見えてきていた。
 しょうぶ学園のキャンパスには木工や陶芸、縫い物、和紙などをつくるための工房があり、そこには日々、多種多様な人たちが集い、ものづくりをしている。僕は工房やスタジオなど、人が集中して創作活動をする場所につよい関心があるので、そんな環境で生活することに憧れていた。学園には、地域の人たちが食事をしたり、アートに触れたり、ここで暮らす人たちと交流したりする空間もある。それらのスペースは、ささえあうくらし、つくりだすくらし、つながりあうくらし、という3つの円からなり、それらが交わる領域で人々の創造性が引き出され、そこに集まる人たちがゆるやかにつながるようデザインされていることを知った時、いまの自分に必要なものがすべてここにあると思った。
 ささえあう、つくりだす、つながりあう、というのは、人間の生活の基本。人は一人では生きていけないし、意識せずとも何らかのかたちで他者と関わりあいながら生活している。何かを自分の手でつくりだすことでよろこびを感じたり、生きている実感を得られたりする。そのことにもっと目を向け、ひとつひとつのプロセスを大切に過ごせたら、いま見えているものとはちがう何かが見えてくるのではないか。そんな気がした。

 しょうぶ学園は知的障がいをもつ人たちのために開設された施設で、45年の歴史をもつ。施設長の福森伸さんや職員の方々と話をして、ここを利用している方々のための支援員としての仕事をさせていただくことになった。知的に障がいをもつとされる人たちと接する機会はこれまでほとんどなかったが、いまはただ、彼らが工房で日々生み出すものたちのエネルギーに圧倒され、魅了されている。コミュニケーションの際には初めは頭で考えてしまうことが多かったけど、何気ない言葉を交わしたり、笑いあったりというやりとりは、ふだん人と接する時のそれとまったく変わらないなと、実際に利用者の方々と接してみて感じた。相手がどんな人であれ、コミュニケーションにおいてはあまり深く考えず、その人自身と向き合うことだけをだいじにして日々を過ごそうと思っている。
 「福祉」という言葉は、ふだん聞き慣れないせいか少し身構えてしまうところがあるが、僕の近しい友人の何人かは介護士や看護師として働いていて話を聞いていたし、母が看護師として働く姿も子どもの頃から目にしていた。また祖母が、寝たきりになった義母を最期まで介護する姿も子ども心に印象的だった。
 以前、看護師をしている友人は「人をケアできるのは人だけだ」と言っていた。その言葉の意味が、いまはわかるような気がする。もちろん身近な自然や動物たちも人を癒してくれる存在だと思うけど、日々言葉を交わし、自分のことを伝えたり、自分の思いを理解してくれる相手は人間しかいない。そして人は、自分を丸ごと受けとめてくれるような存在を必要としている。そういう意味において、人をケアできるのはやはり人だけだなと、思う。
 ケアというのとは少しちがうかもしれないけれど、精神を鼓舞したり落ち着かせたり、魂を癒すものとして、音楽や絵画などの芸術や、物語の存在がある。それも人がつくりだすもので、人間にとって不可欠なもの。僕はこれまでその存在に何度も救われ、力を与えられてきたし、これからも求め続けていくだろう。そして、与えられる側、つくりだす側という枠に自らを押し込めることなく、どちらも自由に行き来しながら人間としての感性をひらいていきたい。双方向に循環するエネルギーの中に身を置くことで、自分の内で目覚めていくものがあると思っている。
 精神の深いところで人を癒すものとしてのケア。いま、何か大きなテーマを与えられたように思う。ケアのことだけではない、ものづくりのこと、コミュニケーションのこと、表現のこと、暮らしのこと、何よりも人間という存在について。プリミティブな個性が集まっているこの場所にいながら、日々いろんなテーマが与えられる。それぞれの問いに対する答えが見つかるまでには時間がかかりそうだけれど、日々の暮らしの中に、ささやかでもたしかな幸福を見出し、感じ、味わいながら、一日一日をだいじに過ごしていきたい。