toggle
2019-02-07

Letter 08 印象に導かれて ちひろさんのこと 2

 ある夏の日の午後のこと。ちひろさんは印象をつかまえた。

「午後の日がチカチカ輝き
 アカシヤの繁みのもとの小さな女の子
 笹の葉で亀の子をこしらえているのか
 舟をこしらえているのか
 丁度背中をこちらにむけて
 しゃがんでいる姿が
 本当に本当に私には
 可愛らしいのです」

 目に映ったそのものが、心をとらえる。これはいったい何だろう、よくわからないけれど、私の心を大きく動かす。私はいま、揺さぶられている。その場を離れ、時間が経っても、その時捉えたものが自分の内にずっと残っている。そして日々出会った印象は記憶の中に積み重ねられ、魂の奥深いところに沈んでいく。
 この女の子の描写は、一九四五年八月一九日の日記にちひろさんが書いたもの。近所に買い物に出掛けた帰り、隣家の子どもに出会い、その様子を眺めてスケッチしたようだ。
 その前日の日記には、こんなことが書かれている。
「きのうから宮沢賢治の事で夢ごこちだ。先日から少しばかりはそうであったけれど、いまは熱病のようになってしまった。前に詩集をよんだ時、もっともっとよく読んでおけばよかった。
 アカシヤの葉が目にチカチカ輝く八月の高い熱のように私のこころは燃えている。年譜を見ただけでなみだぐみ度(た)くなるし、焼いてしまった法華経の教典がいまほしくてたまらない。」ちひろさんはこの頃、宮沢賢治の詩や物語の世界に夢中になっていた。

 この日記は小さなノートに書かれ、「草穂」と名付けられた。彼女はこれを、日本が終戦を迎えた八月一五日の翌日に書き始める。ちひろさんはこの時二六歳。その日、彼女は両親の故郷である長野の山々をスケッチし、「国破れて山河有里(あり)」という言葉を添え、胸の内を書き綴る。

「八月一六日 角影の裏の山畑にて
 敗戦の日、胸が一杯になってただむしゃくしゃ日本のやり方が悲しかったけれど、今日はそのほとばしるような激した感情が潮を引いたように静まりたまらなくやるせなく寂しい心で一杯になった。
 深々とした大地のふところにいだかれ遠くアルプスの前山をのぞみジージーという蝉の声をきく。久しく遠ざかっていたスケッチをしつつ金しょう寺山の面白い形と峯をゆく白雲をしみじみ味わう。」

 国が戦争の道に突き進み、世の中が重苦しい雰囲気に支配されていくにつれ、まわりから美しい色彩が消えていった。空襲で街が破壊され、一面焼け野原になった。それでも以前と変わらず平然とそこにある青い山並みに向かい、一人佇んでいる彼女の姿が目に浮かぶ。この時すでに彼女自身も、人生における大きな挫折と苦悩を経験していた。

 幼い頃から絵や音楽が大好きだったちひろさん。三人姉妹の長女として両親に大切に育てられ、東京の自由な気風の名門校に通い、画家や書家のもとで絵や書を学んだ。
 二〇歳の時、彼女は最初の結婚をする。しかしそれは彼女が真に望んだものではなく、両親の取り計らいによって決まった結婚だった。夫の勤務地である満州・大連に渡るも、もともと愛情をもって連れ添ったわけではないその人との結婚生活は成り立たなかった。子どもの頃からいつも絵を描いていた彼女だが、結婚生活のあいだは一切絵筆を握ることはなかった。結局、精神と身体を病んだ夫の自殺によって短い結婚生活が幕を閉じる。
 そうして満州から日本に帰国した彼女はこの時二二歳。両親が東京・中野に建てた家で暮らすようになるが、その年の冬、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる。戦況が悪化し、山の手の空襲で中野の家を焼かれると、彼女は母の実家である長野・松本に疎開する。
 広島と長崎に原爆が投下されたことは長野でも報道され、東京で山の手空襲を体験していた岩崎家は、南安曇野にある父の実家への再疎開を決めた。ちょうど敗戦が伝えられた一九四五年八月一五日の朝、家へ向かって牛舎に荷物を積んで出発したところだった。正午、その家で、天皇が敗戦を伝える玉音放送を皆で聞くことになる。

 国が戦争に敗れ、自分自身も暗く悲しい出来事に遭遇した中での再出発。僕がちひろ美術館で見た自画像は、終戦直後から一九四七年頃までに描かれたものだった。
 鋭く自身を見つめる目。手で覆われた顔。黒く荒々しい黒炭のタッチは自分の輪郭を探し求めているようだ。どこに自分があるのか、ここにいる私は一体何なのか。傷つき、混乱しながらも、崩れてしまったところから這い上がり、ふたたび自分を立ち上げていくだけの気力を奮いたたせているように見える。「真綿で鉄の心棒をくるんだような人」と妹たちは言っていたそうだから、彼女にはとても頑固で一途な面があったのだろう。
 日記「草穂」には、これからどう生きていけばいいのか模索するかのように自分の感情や思いを吐露し、人生の指針となるような言葉を本から引いて書き記している。そこには、世の中の流れや時運に翻弄されるだけの存在に甘んじず、進むべき道を自ら切り拓いていこうとする意志が感じられる。
 この時、彼女の精神を深いところで鼓舞する存在が宮沢賢治。彼女は彼の詩を一日に何度となく読み、その世界観に触発されて自身も詩を書いている。のちに彼女は賢治さんとの出会いをこんな風に語っている。
「私の娘時代はずっと戦争のなかでした。女学校をでたばかりのころは、それでもまだ絵も描けたし、やさしい美しい色彩がまわりに残っていて、息のつけないような苦しさはなかったのですけれど、それが日一日と暗い、おそろしい世の中に変わっていきました。そんなころに私ははじめて宮沢賢治の作品にふれたのです。」
 賢治さんが農学校の教師をしながら日記のように書き続けた詩篇は「心象スケッチ」と名付けられている。まさに彼の鋭い感覚がとらえた印象を、彼という人間の内面と外界とを自由に行き来し変化していく言葉たちが描写しているような詩群。東京で生まれ育った彼女は、賢治さんの作品世界に描かれる心象風景を通して、その時身を置いていた長野の雄大な自然と心を通わせていたのかもしれない。

 いつかの時代、自分の知らない遠い場所。そこに生きた人が目の前に現れた扉を開け、その先に足を踏み入れた。別々のところから出発し、見知らぬ土地をそれぞれ彷徨い歩きながら、それでもみな、同じようなところに辿り着く。そこで見たもの、聴いたもの、感じとめたものを、それぞれの言語で表現する。その表現に触れた時から心は感応し、いつしか思い焦がれている。たとえ、いま周りにいる人たちに自分の胸の内が伝わらず孤独を感じたとしても、心の底で、自分が一人ぼっちではないことを知る。あの人たちも同じものを見ていたんだ。日常の中で、気づかぬうちに何度もそれに手を伸ばしている。そこではのびのびと呼吸でき、自由になれる。日々訪れるその世界が、あたらしい自分の血肉になる。こうして、魂の系譜は受け継がれていく。

「ああ三井コレクション
 ピサロ、モネ、ボナール
 ルオーのかなしい女達が
 切なく赤いライトにおどる
 焼けてしまったローランサンの朱い額と
 ゴッホの燃えているあの木や草
 私の夢は寂しく駈ける」
 九月四日の日記に並んでいる名前はみな、印象派と呼ばれる画家たち。彼らは、歴史や伝統を重んじるフランス・王立アカデミーが評価する主題や様式から離れて、陽光が降り注ぐ屋外へと飛び出していく。彼らは古代ローマの美術や神話、聖書に題材を得るものよりも、より身近で、日常にあるものや風景を描きたかった。それまでの画家たちはアトリエで制作したが、彼らは街を歩き、港を歩き、森の中に分け入り、ふと風景を目にした瞬間の印象をそのままキャンパスに描きつけた。
 どの空間にもそれぞれの時間の流れがあり、その流れに沿って光が移ろい、色彩が変化していく。それは自分の外側にある客観的な現実などではなく、自身がその中に身を置いて体験している、刻一刻と形を変えていく現象だった。世界に対するあたらしい見方があたらしい表現を生み、多くの人の目を開かせる。
 ちひろさんは続ける。
「けれど田舎は美しいのよ あのノコギリの山と霧と青田の色は。
 それでも何と寂しいか
 つきあえば可愛のだけれど
 人見てののしり後姿をわらう はだしの子
 都会の空気の中で 大人になった私はここはあんまり
 すきとおりすぎる
 大きな水素玉の中に
 透明な風光を うつしているとしか見えぬ
 私に接触面のない景色
 “ あんまりへんなおどりをやると 未来派だっていわれるぜ ”
 宮沢賢治の大自然に すっかり自分がとけきって
 共にかたっている姿を 心より讃美ししたいきって
 その幸福を汲みとるべく 私は都会を離れたが……
 (でもまだ絶望ではない 
  まだ何程も土と生活をしたのではないのだから)
 然し東京のこいしさ
 思いもかけなかったこの心に 今宵私はねむれない」
 日記には、今後長野に残って女学校の先生か小学校の先生になるつもりと書いているが、文化的なものが集まる東京への思いが募り、ちひろさんは身の振り方に迷い、揺れている。

 翌年の一九四六年一月、松本市公会堂で開かれた共産党の演説会に、ちひろさんは妹と従兄弟とともに参加する。国一丸となって戦うことが正義とされたあの戦争は何だったのか、自分たちが送る日常の裏側で何が起こっていたのか、本当のことが知りたかったのだろう。そこで、当時は知ることのなかった戦争の実態を目の当たりにする。日本が他国で行った残虐行為を知り、はじめて自分が加害者の側にいたのだという意識が芽生えた。
「戦争が終って、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動をうけました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました。」
 この思いを胸に、ちひろさんは党へ入ることを決意。戦後最初の総選挙のためのポスター作りをしたり、「詩と音楽の会」の主催者メンバーとなったりと精力的に活動している。そして四月のはじめ、彼女は党が募集している「宣伝芸術学校」の記事を見た。音楽科、演劇科、絵画科などが用意され、絵画科の科目には素描や宣伝絵画の描き方、美術史などがある。来月から東京で開校、申し込みの締め切りは今月二〇日まで。ちひろさんは、これだ、と思ったのかもしれない。誰にも相談せず、住むところも、仕事も決まっていないまま、上京することを決める。
 芸術学校開校日である五月二日の早朝。ちひろさんは松本駅まで歩いて行き、中央線の六時の始発に乗り込む。松本発新宿行四一六普通列車。この時二七歳のちひろさんは、住み込み女中をしてでも東京で生きようという決意だった。蒸気機関車に揺られながら、彼女はこれまでにあった出来事と、未来に対する期待とのあいだで胸を震わせていたのではないだろうか。

 上京を果たしたちひろさんは、新聞記者の仕事を得て、カットをかいたり挿絵つきの記事を書いたりするようになる。神田神保町に住む叔母の家に身を寄せ、三階の屋根裏部屋で暮らし始める。九歳下でちひろさんを慕う従姉妹も一緒で、二人は枕を並べて寝ていた。毎晩のように、ハリウッド映画で踊るフレッド・アステアの話をし、手回しの蓄音機でレコードをかけて聴いたり、歌ったりしていたそう。買ってきた帽子に自分で花模様を描いたり、映画で見て憧れていたワンピースを着たりして、貧しいながらもおしゃれを楽しんでいた。そして、街で見かけた子どもをこの屋根裏部屋に連れてきては、スケッチをしていた。三ヶ月間の芸術学校のあとは、デッサン会に通って技術を磨き、同世代の画家や芸術家たちとも知り合った。そのうちに彼女は同じ町のブリキ屋の二階に転居し、一人暮らしを始める。
「わたくしのへやの窓のしたではこどもたちが、いつもキャッチボールやなわとびをして、あそんでいます。わたくしは、こどもがすきなので、ひまなときにはいつも窓からくびをだしてみています。(・・・)こどもたちはときどき、たいへんかわいく、また美しいようすをします。わたくしはそれをみつけると、いつもスケッチいたします。今日はしずかに本を読んでいる三人の女の子をかきました。夕方のすずしい風が、このやけのこったうら街をふいています。」

 東京に出て三年目の夏、ちひろさんは夫となる人と党の活動の中で出会い、結ばれる。年が明けてから、ブリキ屋の部屋で、二人だけの結婚式をすることに。
 貧しい二人がもっていただけのお金でたくさんの花とワインを一本買い、部屋中を花で飾り、きれいなグラスを準備した。仕事が長引いて遅くに帰ってきた新郎を迎え、夜の一一時過ぎに式を始めた。
 結婚するにあたって二人が交わした誓約書がある。その中には、「お互の立場を尊重し、特に芸術家としての妻の立場を尊重すること」という一文がある。画家として生きるという意志は、彼女のうちで確固としたものになっていた。

 結婚の翌年の春、二人のあいだに男の子が誕生する。神田のブリキ屋には小さなベビーベッドが置かれ、子育てをしながらの生活になるが、夫は司法試験を間近に控え、ちひろさん自身も生計を立てるために絵を描き続けなければならず、生まれたばかりの子を泣く泣く、長野の両親に預けることにする。しかし一ヶ月も経たないうちに彼女は息子に会いに長野へと赴いている。帰りの汽車の中で、ちひろさんはスケッチブックにこんな言葉を書き記している。
「遠くはなれている私の可愛い赤ちゃん
 あおうと思っても汽車で八時間 電車で一時間
 おまけに草のつゆに足をびしょぬれにさせて四十分
 それでも私はせっせとあいにゆく、お金ができしだいあいにゆく
 かえりは、いつも汽車の窓を涙でびしょぬれにするのだけれど、
 可愛い猛の顔を見にゆかないわけにはゆかない
 私の赤ちゃん、猛は本当に可愛く美しい。」

 母と子の絆、それは父親との繋がりとはまたちがう種類のものなのかもしれない。ちひろさんの絵を見ていると、僕は子どもの頃母に絵本を読んでもらっていた時間を思い出す。近くにある図書室で絵本を選んで借りてきて、夜眠る前に一冊、弟といっしょになって読み聴かせてもらっていた。日本のものや、外国のもの。気に入った絵本は何度も借りてきては読んでもらった。まだ小学校に入る前のことだ。絵と文が織りなす物語の中に入っていき、そこで僕は自由に想像を羽ばたかせることができた。毛布にくるまり本を広げ、そばに母親がいる。すっかり安心し、守られている感覚があった。その時のあたたかさと、ちひろさんの絵のもつイメージは、僕の内面で結びついている。何か大きなものに抱かれているような心持ちだ。ちひろさんが描いているのは子どもたちだが、子どもたちを描くその眼差しが母性を感じさせるのかもしれない。限りないやさしさと、大切なものを守り、育んでいくだけの強さ。そう、やさしさと強さは同義なのだと、僕はちひろ美術館で彼女の絵を見ながら思い至った。ほんとうにやさしいものは、同じ深さの分だけ強く、非常なきびしさを合わせもつ。僕がちひろさんの絵に触れ、母と過ごした時間を思い出したり、「母なるもの」を感じる由縁はそこにあるのだと思う。

 息子が誕生した翌年の春に東京・練馬区下石神井に新居が建ち、長野の両親に預けていた息子とともに、ようやく家族三人で暮らせるようになる。そばにいる我が子の表情や身体の動き、仕草を、ちひろさんは画用紙に描きつけた。最愛の子どもが片時も離れずそばにいるのだから、寝食を忘れてその様子を描いたのだろう。しかし絵を描いているだけでは生活が成り立たない。育児をし、家事をもこなすちひろさんの仕事は深夜にまで及んだ。ちひろさんによって描かれた小さな赤ちゃんは、次第に歩くようになり、話し始め、あっという間にランドセルを背負うようになっていた。その子の歩みとともに、ちひろさんは童画家として、絵本作家として、数々の絵本や紙芝居、絵雑誌を手がけるようになり、彼女の画家としての世界は確立していく。

 ちひろさんが描くようなかわいらしい子どもは現実にはいないという声が、戦後すぐの時代からあった。彼女はそれでも「かわいいものをよりかわいらしく、美しいものをより美しく」描こうと努めた。それが彼女の内なる声であり、出版社などから絵の線を直せと言われても、自分の表現に妥協しなかった。ちひろさんの息子である松本猛さんの本には、彼が学生の頃、芸術や絵画についてちひろさんと語りあったことが書かれている。
 ある日ちひろさんは、芸術の道を志すようになった猛さんをベン・シャーンという画家の展覧会に連れ出す。ベン・シャーンは一八九八年にリトアニアに生まれた後にアメリカに移住し、やがて社会派の画家として知られるようになるユダヤ系のアーティスト。ちひろさんの本棚にはベン・シャーンの名画集があって、そこに収録されている彼の文章にはところどころ赤鉛筆で線が引いてあったそう。
「私が絵画の原則としてもちつづけた主義は、外的対象、たとえば人間の姿は、細部まで鋭敏な眼で観察されねばならないが、こういう観察のすべては、内面的な見方から形成されなければならない――いわば『主観的リアリズム』」
 ベン・シャーンの「主観的リアリズム」という言葉は、ちひろさんの内にあったテーマと結びついたようだ。作風は大きく違えど、二人の表現に対する考え方は共通していた。彼女は自分が描きたいものを、心にとまった印象のままに描いた。彼女が敬愛していた芸術家たちがそうしていたように。子どもたちを見つめる時の彼女の喜びや驚きや慈愛は、そのまま彼女が描く線に、色の鮮やかさとにじみに表れている。

 実家の本棚の中にある、子どもの頃によく読んでいた学研の本を、僕は最近また手にとって開いてみた。現物はいつしか姿を消してしまい、いま手元にあるのは大学生の頃、自分で買ったものだ。大学の帰りに、通りを歩いていてふらりと入った古本屋でたまたま同じ本を見つけ、思わず手にとってしまった。ベスト教科事典の図工・音楽。中を開くと、懐かしいページが並んでいる。中でも、かつて何度も開いたページを眺めるのは感慨深かった。
 大人になってふたたびこの本を開くと、子どもの頃には目に入らなかったことに気づくようになる。かつては決まったページしか開かず、他のページにはほとんど目もくれなかった。そしていつも見ているのは写真や絵であり、文章についてはちゃんと読むのは見出しくらいで、本文はほとんど読んでいなかった。いま改めて開いてみると、絵画、デザイン、造形など、美術のあらゆる項目について網羅されていた本だったことがわかる。音楽についても同様だ。そして、そこには制作の方法についてだけでなく、どんな心で向き合うか、ということについても書いてある。
 絵画の描き方を紹介するページで、こんなことが書いてあった。
 
 ◯感じたことをあらわす
 自分の心にいちばん強くのこったこと、それを絵の中心にして、自分のかきたい方法でかくのが、いちばんだいじなことです。色のまぜ方や、筆の使い方もだいじな勉強ですが、いちばん大事なことは、自分の気持ちを自分のかき方でかくことをわすれないことです。

 ◯いちばんかきたいところからかく
 全体のまとまりを考えて、かきたかったことがボヤケてはだめです。
 いちばんかきたいものを、どこにおくかきめたら、それを中心にグイグイかき進めましょう。

 あ、と思った。これ、たしかに絵を描く時にだいじな視点だけど、人生についてもそのまま言えることだな。
 いちばん描きたいものは、心に強く残っていることだ。それを、自分が描こうとしている絵の然るべき場所に配置し、そこを中心にして一気に描く。全体のまとまりを考え過ぎるな。技術云々よりも、自分の描きたい方法で描くのがいい。
 描きたいものはなんとなく見えているのに、僕はいつも周辺から描き揃えてしまう。全体のバランスを考え、足りないものを補おうとしてしまう。でもそういう自分の傾向を意識できてから、僕は少しずつその状態から離れ、心が惹かれるものに素直に飛び込めるようになってきたと思う。必要なことは、心をひらき、自分が何を感じているのかをしっかり掴むこと。そして、自分がどんな絵を描こうとしているのか、その中心にあるのはどういうものなのか、漠然とでもいいから意識すること。
 何を指針にして生きるかは人それぞれだ。言葉に頼る人、数字に頼る人、感覚に委ねる人、欲望のままに生きる人…… みな、自分の内なる声に従って生きている。そしてその中には、印象に導かれて生きる人たちもいる。心でものを見る人たち。迷った時、心にとまる何かを信じて、そこに向かって歩み続ける。みんなちがう方角を向いて、てんでばらばらなことを考え、話している世の中にあって、それはひとつの力強い生き方なのではないかと僕は思う。

深い森を抜けると
一面に広がる海
波のきらめきと
すべてを抱く空のあお

あるいは

昼下がりのサンルーム
そこに差し込む眩ゆい光
このぬくもりに身をあずける

あるいは

冬の朝のつめたい空気
白い吐息
遠くを見つめる瞳

あるいは……

彼女は見たんじゃない?不思議でたまらない景色を

彼は聴いたんじゃない?耳から離れない声を

不意に心を掴まれた瞬間からずっと、
ずっと追いかけている

脳裡に焼きついた情景に漂う
そこはかとない香りを辿って
いくつものあたらしい問いをくぐり抜けていく
印象に導かれる人生

そして直感する
ここに生命があると

ここに痛みが ここに喜びが
懐かしさが 愛おしさが
身体の奥底から込み上げてくる
とめどなく とめどなく

その元を辿っていくと
奥底で泉が湧いている
過去や未来のあらゆる記憶が
時間の鎖を解かれて
ひとつになって流れている

――――
■いわさきちひろさんの生涯について教えてくれた本・メディア
―本―
松本猛『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』講談社 2017年
『いわさきちひろ展』いわさきちひろ絵本美術館 1991年
―映画―
海南友子『いわさきちひろ ~27歳の旅立ち~』2012年
―展示―
いわさきちひろ美術館(東京、安曇野)での常設展、および企画展