toggle
2018-12-15

Letter 07 ちひろさんのこと 1

 世界を見つめる 透きとおった目

 ことりがとまり 葉っぱがゆれる
 はだにかんじる 空気のふるえ

 その目で捉えているものは
 鮮やかな色 光と陰 それとも
 まだ彩られていないデッサンのような
 ものの形と輪郭か
 
 かすかにきこえる かぜのうた
 そっと手のばす こわくないよ

 彼女はしずかに呼吸する
 地球の胎動とおなじリズムで

 白いシンプルな額縁に入っているその絵は居間に飾ってあり、子どもの頃から目にしていた。少女の横顔。彼女の透きとおった目は、草むらにとまっている小鳥を見つめている。微笑んでいるわけではないその横顔は凛としている。少女を描く鉛筆の線と白いスペースににじむ淡い色は、決して何かをつよく主張しているようには見えないのに不思議といつまでも心に残った。おなじような目をした子どもたちの絵を見ると、すぐにその人の絵だとわかった。切り取られた場面や人物の動き、色合いはそれぞれちがうけれど、しなやかな線と色のにじみ、子どもたちの表情には、どれも通ずるものがあったから。絵の端には、特徴のあるひらがなで小さく、ちひろ、とあった。この人の描く絵はすきだと思った。

 その絵描きの名前は「いわさきちひろ」というのだと、母がおしえてくれた。その線と淡い色合い、そこに立つ子どもの表情から、描いたのはどんな人なのだろうと想像してみる。水彩画のやわらかく、透きとおるようなイメージ。子どもたちの顔に浮かぶ、健気さや無邪気さ。あかるく、楽しい感じは子どもの自分にも伝わってくる。
 でも、それだけではない気がした。画用紙の中に佇む人物の顔に、はっとするような表情を垣間見ることがあった。世界をじっと見つめている、ありのままに。自分は空っぽになって、目の前にあるものをただ不思議そうに見ている。あっちを向いたり、こっちを向いたり、遠くを眺めていたり、近くのものをじっと視ていたり。笑っているのか、悲しんでいるのか、よくわからない。でも、ほんとうに、人はそんな表情を浮かべているんだ。よろこびでも悲しみでもない、そのあわいをすくうような表情を。そして、子どもたちはまさにそんな風にして、そこここに佇んでいると思わせる。僕はその人の顔も知らずに、ひらがな七文字の名前とその人が描く子どもたちの絵だけが脳裡で結びついて、長いあいだ記憶の奥底で眠っていた。

 上京して大学に通い始めるようになりしばらくして、ふたたびその人の名前を目にした。たしか街の情報誌に載っていたのを見かけたのだ。いわさきちひろ。すぐに思い出した。子どもの頃に見ていた絵の、描き手の名前。その情報誌を読んで、その時住んでいたまちの近くに彼女を記念した美術館があることを知った。美術館の最寄り駅はふだん乗っている電車の沿線にあったけれど、まだ一度も下りたことがなかった。僕はその人の名を手帖に書き込んだ。
 美術館に行くのは久しぶりだった。子どもの頃はよく親に連れられて出掛けていたが、中高生になると美術館へ出かけることはめったになくなった。まるで、かつて夢中になったものを封印するかのように。それでも、子どもの頃にすきだったものや繰り返しやっていたことは、しばらくそこから離れていても自分の中に消えずに残っている。子どもの頃僕がすきだったのは、絵を描いたり、ピアノを弾いたりすること。保育園の先生たちが色画用紙を切り貼りし、季節ごとに窓を飾っているのを真似して折り紙を自宅の窓に切り貼りしたり、母に連れられて観にいった劇のブックレットを模写したりしていた。譜面通りに弾くピアノの練習はすきではなかったけれど、ピアノの音と鍵盤を叩くのはすきだった。うたの時間に、保育園の先生が白と黒の鍵盤がつくる凹凸に両手をあて、無造作に押したり引いたりしているように見える指の動きに魅了された。本棚に並べられてあった学研の本にはいろんな教科があったのに、決まって「図工・音楽」ばかりを手にとって読んでいた。その本の中で紹介されていた画の印象は深く刻まれている。モナリザや、ルソーの蛇使いの女や、セザンヌのオレンジや、ワイエスの荒野に座る少年。それが最初に触れるものだったからだろうか、その絵が与える印象がとても不思議で、何度も何度もその絵が載っているページを開いた。それぞれの絵をじっと見つめ、その印象世界を彷徨った。そして子どもの頃に訪れた印象世界の中にはちひろ、とサインされた子どもたちの絵もあった。

 初めてその美術館を訪れた日は雨が降っていた。僕の隣には、おなじように絵や音楽がすきな女の子がいた。ちょうど梅雨の時期で、電車から降りると、街全体が緑がかったグレーの膜がかかったように見えた。傘をさし、美術館に向かってまちを歩いていく。古くからそこに根を下ろしているのであろう大樹や、町家が並ぶ通り、昔ながらの風情を感じさせる商店街を通り過ぎる。入り組んだ住宅地の中に、その美術館はひっそりと佇んでいた。緑に囲まれて、建物の赤茶色が映える。小さな建物だが、清潔感があり、あるべきものがあるべきところにきちんと配置されている、という感じを与える。雨のせいか来訪者はあまり多くなく、館内はひっそりとしている。美術館といえば街の中心にある大きな建物で、その中にいろんな画家の作品が所狭しと並べられているというイメージがあったので、それに比べると小ぢんまりとした印象をもったが、なんだか彼女の家を訪問するような心持ちになって、この空間をすぐに気に入った。大きな窓から濡れた緑が揺れているのが見える。テラスもあり、庭に植えられた草花にとても近い。しばらく館内を見渡し、ゆっくりと展示室に足を踏み入れる。

 彼女の絵を一目見て、子どもの頃に見た絵の印象がたしかな色と形を取り戻した。画用紙の上で線がしなやかに伸び、目の前で淡く鮮やかな色がパッと咲く。犬と戯れる少女。駆け回る少年たち。歩き始めた赤ん坊。カラフルな魚とコラージュされた少女。色とりどりの風船につかまって風に乗る少年。その線は子どもたちの微妙な表情を豊かに描き出し、身体を躍動させる。そしてその色は、子どもたちの繊細な感受性とのびやかな感性を視覚化する。子どもの動きや表情をよく見て描いただろうことがその鉛筆の線から伝わってくる。間近でその線を辿っていくと、彼女の息づかいまで聞こえてきそう。
 彼女の画家としての歩みを辿る次の展示室で、意外な絵を目にした。それは彼女の自画像で、炭で描かれたものだった。眼光が鋭く、口をきゅっと結んでいるその顔は黒々と濃い線で描かれている。また、画家として駆け出しの頃の彼女は、一人アトリエに座りながら、手で顔を覆っている。太目のペンで描かれたものだ。どちらの絵も、やわらかい線で色彩豊かに描かれている絵とは対照的で、生身の自分をリアリスティックに捉えようとしている印象を受ける。模索、苦悩、絶望。一人の人間として、また表現者としての彼女のあがきを垣間見た気がした。
 それから度々、僕はこの美術館を訪れては彼女の絵に触れ、彼女の人生や、画家として何を表現しようとしてきたのかを少しずつ知ることになった。