Letter 04 感情という羅針盤 自分とつながること
自分が好きなことをやりなさいとか、自分の心に素直になりなさい、と人はよく言う。とかく自分の選択とか主体性とか、意思というものが目に見えるもののようにはっきりしていることを前提として語られることが多い。でも、いま自分が何を感じていて、何をどうしたいのか、わからなくなる時だってある。道の途中で迷い、途方に暮れてしまうような時。いままで見えていると思っていたものが急に見えなくなり、頭が真っ白になってものが考えられない。自分がある物語の主人公だったとしたら、場面の途中で足が止まってしまい、そのまま立ち尽くしてしまうような状況。何を感じているのかはっきりしないし、これからどうしたいのかさえわからない。あれ、さっきまで夢中になって走っていて迷うことなんてなかったんだけどな。どこではぐれてしまったんだろう。この物語の主人公は、自分ではなかったのか?あぁ、主人公失格だ。
小学校や中学校の昼休み。高校の放課後。そういう瞬間が、僕にはこれまで幾度となく訪れた。何をやってもいいよ、自分の好きなことをやりなさい。そう言われて放り出された時、この身体を動かす何かを自分のうちに感じられず、何をするでもなくただその時間をやり過ごしていた。実体がなく、宙に浮いた時間。そこにあるのは空っぽに感じられる自分の身体だけだった。
振り返れば、自分の好きなこと(好きという言葉もまだ知らず、ただワクワクしたり、夢中になったりするもの)と純粋につながっていたのは、子どもの頃のほんの短い期間だったように思う。我を忘れて目の前のことに没頭する濃密な時間。その時期を過ぎてしまえば、何をするにもあれこれと複雑なことを考えるようになり、その時に自分が何を感じていて、どうしたいと思っているのか、心の根っこの部分にあるものをシンプルに掴めなくなった。
それでも、時間は続いていく。絶えず流れていく日常のなかに身を置いて生きているのは紛れもなくこの自分だ。自分が感じること、そしてそれを頼りに選択し、決めていくことが自分の物語=人生を生きることなのだから、感じる、ということがあらゆることの起点になっている。そして感じることは、まだ地図ができていない場所を歩んでいくためのコンパスのような役割を果たす。
しかし、自分の感情を把握しようとする時、いままで知らず知らずのうちに身につけた価値観や、思い込みや、社会の規範やらが邪魔をする。そういうフィルターを介さずに、そこにある自分の素直な思いを見つめることは、時にとてもむずかしい。その作業は具体的に言えば、自分が感じていることに、しっくりとくる言葉をあてること。なるべくズレがないように、ぴたっと重なる言葉を探す。わかりやすい言葉で適当に誤魔化したり、カンタンな説明に委ねてしまうと、道に迷い、自分が本来歩もうとしていた道筋がわからなくなってしまう。その作業にはたぶん正解のようなものはない。試行錯誤を繰り返しながら、少しずつその精度を高めていくものなのだろう。焦らずに、少しずつ。
感じていることを確認する(=きちんと言葉にする)作業は、だから、自分で身につけていくしかない。正解がないのだから、そのやり方を単純に人と比べることもできない。僕の場合は、身を置く環境が大きく変わる時に経験することになった。それは、中学生と高校生時に体験したアメリカでの生活。せっかく貴重な体験ができるのだからと、滞在中日記をつけていた。
中学生の時は、フロリダ州マイアミでホームステイをした。キューバから移住してきた家族が僕のホストファミリーだった。二週間という短いプログラムだったけれど、初めて訪れた外国だったこともあり、そこで見るもの、感じるものすべてが新鮮だった。その時に書いていた日記を読み返してみると、誰に会ったとか、どこに行ったとか、その程度のことしか書かれていない。あとは、うれしかった、おいしかった、眠かった、というような感想。文章の形もままならない。あの時は「感じる」ことで精一杯だった。初めて訪れた外国で、見知らぬ人たちといっしょにいる、その状況になんとか適応することがやっとだった。感覚器を広げたままその場所に飛び込み、そこで受けとめきれない量の情報が入ってきて、それを意味付けしたり、解釈したり、判断するところまでとても追いつけなかった。
次にアメリカに滞在する機会を得たのは高校三年の夏。メリーランド州にある学校で六週間、各国から集まった若者たちと共同生活をしながら英語を学ぶプログラムに参加した。その時につけていた日記は、中学生の時に書いたものよりも文章の形がしっかりしてきている。単なる感想というよりも、これはこういうことなのかな、いや、こういうことだと思う、というような問答があり、自分なりの「考え」に近づいてきてはいる。ただ、その時の滞在を振り返ってみると、楽しい思い出もできたし、みんなと笑って写っている写真もたくさん残っているのだが、それ以上に不安と戦っていた記憶がつよく印象に残っている。その時の感情を、いまでもありありと思い出すことができる。あの苦しみは何だったのか。いまならその源泉を辿ることができるけれど、当時は自分がなぜ不安なのか、なぜ苦しんでいるのか、その理由がわからずに悶々とした日々を過ごしていた。内なる問答の末に「答えを見つけた!」と思って喜び、安堵することがあってもそれは一時的なことで、どこかで聞いたことがある言葉だったり、一般論だったり、教え諭されたりしたことを持ち出してきて、自分を納得させようとする。でもそういう言葉は自分に根付いていないから、すがろうとしたところで実体がなく、ちょっとことが起こればすぐによろけてしまう。そんなプロセスを嫌という程繰り返していた。誰かといっしょに笑っている時でも、心のうちではモヤモヤしたものが消えなかった。
*
窓の外で降り続く雨を見ている。桶にためた水をひっくり返したみたいなドシャ降りだ。机に置かれた英語のテキストやスーツケースを置いた部屋。まだ慣れないこの部屋の匂いとベッドの感触が、ここが自分の部屋ではないことを改めて僕に知らせる。出発する前、梅雨の時期の鹿児島でも雨が降り続いていたけれど、それと同じくらい、もしかしたらそれ以上の雨だ。メリーランドってこんなに雨が多い場所だったんだな。次第に雷が鳴り始め、雨脚がさらに強くなる。外の景色と呼応するように胸のうちの不安も大きくなり、それとまっすぐ向き合いたくなくて、イヤフォンを耳に押し込み音楽を再生する。でも心を覆った暗い色の雲はなかなか晴れない。このモヤモヤを拭いたいと切実に願っているけれど、その方法がわからなくて途方に暮れる。
もちろん、楽しみにしていることだってある。スケジュール表に目をやると、川やビーチへの遠足やアイススケート、交流パーティー、ワシントンDCへのフィールドトリップなど、六週間のプログラムには僕たちを楽しませる企画が盛り込まれている。それなのに、不安が一向に収まらないのはどうしたことだろう。
このプログラムは南九州の新聞社と航空会社が共同で企画し、毎年夏に県内の学生をメリーランド州にある提携先の学校に派遣するものだ。プログラム終了後、参加した生徒たちの現地での活動内容やインタビューが新聞に掲載される。僕は中学生の頃からその記事を読んでいて、いつか参加したいと憧れていた。子どもの頃から抱いていた世界の国々への興味が中学時のマイアミでのホームステイにつながり、いくつかの選考を経て渡航が決まった時は飛び上がるくらいうれしかった。それから四年経ったいま、その延長線上に僕は立っているわけだ。
このプログラムに応募する時、僕は両親にも友人にも相談しなかった。新聞で募集の記事を見つけ、応募するまでにそれほど時間はかからなかった。学校の勉強に身が入らず、入学時に入った部活動もすぐにやめてしまい、打ち込めるものを見つけられないまま、何のために学校に通っているのかわからない日々が続いていた。このプログラムに応募しなければ高校生活には何も残らないと思った。学校の帰りに文房具屋で原稿用紙を買い、その日のうちに課題作文を書き、翌日ポストに投函した。そのあと面接を経て、またアメリカに行けると知った時には「よし」と思わず拳を握った。
憧れに手を伸ばし、挑戦し、チャンスを掴むのは最初のステップ。そのステップに進んでみて、実際にその場所を訪れると、目の前にあるものたちがリアルに迫ってきて、その現実感にまずくらくらする。本当に来てしまったんだ、夢に見た場所にいま本当に身を置いているんだ、という実感に慣れるところからスタート。そこで「自由に」動けるようになるためには、もうひとつ先のステップに進まなければならない。
無論、次のステップに進むかどうか、それは自分次第だ。そこを訪れたということだけで満足する場合もあるかもしれない。そこは自分の居場所じゃないと気づくこともあるだろう。進むことを強要されている訳ではない。あくまで自分がそこから先へ進みたいかどうかだ。しかし実際のところ、そこにいるあいだ、自分に突きつけられる問題に答えていかなければ前には進めない。その問題はこれまで考えたこともなかったようなことだったり、あるいはずっと苦手意識があったり、無意識のうちに避けていたことだったりする。目の前の障害物やふってわいた難題を最初はうまくかわそうとしても、そのうちに立ち行かなくなる。人は、考えたいから考えるのではない。何かを問わざるを得ない状況に置かれるから、頭を使って考え始めるのだ。考えないと自分自身を支えることができなくなるから、必死になって考えるのだ。そのことを身をもって知る。
自分がふだん身を置いている場所から離れ、見知らぬ土地で生活する時には少なからず負荷がかかる。それは了解済みだったし、外国に行くのは初めてではないのだから乗り越えられると思っていた。でも、現にのしかかっているその負荷は、いまの僕にとっては少し重すぎるみたいだ。この負荷の中身は一体何なのだろう、と考えてみる。
まず、いま目の前で話している人たちが、自分のこれまでの日常を超えた範囲から来た人たちであることが、精神にとても大きなインパクトを与えている。実際ここには、文字通り「世界中」から人が集まっているのだ。ロシア、トルコ、サウジアラビア、スペイン、イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、アフリカの一国(どこの国だったか思い出せない)、ドミニカ、パナマ、プエルトリコ、メキシコ、インドネシア、中国、韓国、日本。ふだん出会うことのない人たちが大勢集まっていて、彼らはどうやら自分が生きてきた場所とは違う世界で、違うスタイルで生きてきたようだ。それはその人の姿かたちや、纏っている雰囲気、話す言葉、その話し方から直感する。
「違う」ということはここでは前提でしかない。心づもりはできていると思っていたが、実際に相手を前にするとその違いの度合いにひるんでしまう。ふだん日本で生活している時の何倍ものことを意識しながら相手と対面している。そのやり取りには緊張が多く、とても骨の折れるプロセスになる。しかし時間を共有するにつれ、差異を意識することからもたらされる最初の緊張や戸惑いが次第に薄れていく。そして、差異よりも、おなじことを感じていること――相手が自分とおなじことで喜んだり、悲しんだりしている、ということが、これも直感的にわかるようになる。やっぱりそうか、人間同士ちゃんとわかり合えるんだ、共感できるんだと、頭の中での理解ではなく肌身を通して実感できるようになる。
ただ、日常の会話だけではなかなかそのポイントまで辿り着けない。慣れない場所に降り立った僕の緊張を解き、肩の力を抜いてその場の空気に馴染むことから始めたらいいと教えてくれたのは、ここで初めて体験したダンスパーティーだった。
着いて三日目、夕食の後のレクリエーションの時間、突然ダンスパーティーが始まった。午後六時に夕食をとった後は、「ガンロック」と呼ばれている、ソファやボードゲームが置いてある地下のラウンジでみな思い思いに時間を過ごす。コーラやスプライトの入ったカップを持って人が集まり始め、スナックを食べながらおしゃべりしたり、ボードゲームをしたり、楽器を演奏したり、本を読んだりする。しばらくすると、どこからともなく重低音の効いたダンスミュージックが流れ始める。それに合わせて部屋が少し暗くなると、ダンスパーティーの始まりだ。それは予告されていたわけではなく、あくまでも日常の延長上、という感じだった。
先陣を切って踊り始めている彼らは、ドミニカ人。ビートに合わせて身体を動かし、男の子は自然に女の子の手をとってエスコートする。その所作の華麗なこと。その周りで踊っているのはスペイン人。身のこなしが小慣れていて、笑っている彼女たちの周りにはいつも陽気な雰囲気があり、明るい光が溢れ出ているようだ。僕はその様子をしばらく部屋の脇にあるソファに座って眺めていた。というか、あっけにとられていたと言った方が正確かもしれない。ダンスパーティーなんて、日本の高校生は日常生活でまず体験しないことだけれど、それは他のアジアの国でも同じなのか、ソファに座って話をしているのは韓国や中国から来た若者たちが多い。和やかな雰囲気の中、授業のこととか、お互いの国のことなどを淡々と話している。別に無理に踊らないといけないわけでもないし、こうやって話しているのもそれはそれでおもしろいのだけれど、心は部屋の中心で盛り上がっているダンスの渦の方に向かっている。「なんか楽しそうだな」と心のうちで呟いている。だけど、その輪の中に自分から入っていこうとはしない。部屋の中心にある熱の高さと、自分の気持ちのエネルギーの低さにうんざりし始め、部屋に戻ったらどっと疲れが押し寄せてきた。寝る前に机に向かい、自分の感情をノートに書きつける。「本当はダンスを一緒に楽しみたかった。でもそれができない自分が嫌だし悔しい。」
その三日後、またダンスパーティーが催された。夕食の後シャワーを浴び、持ってきていた服の中から、破れたジーンズと、明るい色のシャツを選んで着る。着ている服は国によっても少しずつ違うし、その人のキャラクターを表すもののひとつとして服装が一役買っている。前回部屋の脇で、踊らずに固まって話していたのはアジアから来た若者が多く、大きな部屋の中に自然とグループのようなものができていた。ダンスをしている彼らから見たら、部屋の脇で話している僕たちはきっと「マジメ」で楽しむことを知らない奴らなんだろう、とその時思った。僕はそのイメージを壊したかった。
ガンロックではいま流行しているダンスチューンが流れ始め、集まってきた人たちが踊り出す。二回目だからか、この前ほど緊張してはいない。今日は音楽を楽しむ余裕もある。部屋の中に自然に輪ができ、それは次第に大きくなり、エネルギーも高まっていく。輪を作っているのはやはり中米やスペインの若者たちがほとんど。人数も多いせいか、そこからエネルギーが部屋全体に発散されている感じがする。
僕も音に合わせて身体を動かしてみる。縛りを解くような感じ。身体から無理な力を抜き、その場の熱の波に身体をあずける。身体を動かしていると、話しかけてきてくれる人がいる。ここに来てからまだ日が浅く、初めて話す人も多い。名前、何ていうの?どこから来たの?それだけの会話でも、笑顔が生まれる。「楽しい」という感情が生まれ、その感情がさらに身体を自由に解き放っていく。人が加わる度にダンスの輪は大きくなり、ビートが速くなるにつれ、部屋の温度も、そこにいる人たちの情感も高まっていく。
一人、輪の中心に躍り出て、みんなに囲まれながら自分の踊りを披露し始めた。ソロだ。ふだんから踊り慣れているのか、そこに恥じらいのようなものはなく、思いのままに身体で自身の情を描き出す。歓声が上がり、その輪もさらに盛り上がる。中心で踊る彼は輪の外にいるもう一人を中に誘い、二人で踊り始める。相手の動きを見ながら、二つの身体の動きがシンクロする様は見事だ。周りからは拍手が湧き、二人はまた輪に戻る。今度は別の一人が中心に躍り出る。僕は身体を動かしながら、輪の中心で踊る人たちを見ていた。気持ちは十分にこの輪と一体になっていることを感じる。踊ってみようかな、輪の中心で。自分に問いかけてみる。どう?抵抗を少しも感じないわけではないけど、やってみてもいいかな。中心で踊っている二人は輪に戻り、真ん中が空く。準備はいいかい?すでに弾んでいた鼓動が一気に高鳴る。「いくよ」自分に向かって合図するとともに、輪の中心に向かって一歩踏み出す。一瞬音楽が聞こえなくなる。真空。次の瞬間にはもう、踊り始めている。輪の中心で。歓声。笑い声。僕の名を呼んでいるのが聞こえる。僕は何も考えず、音に合わせてただ身体を動かす。音楽と一体になっていることを感じる。輪の中にスペイン人の女の子が入ってくる。彼女は慣れているのか、洗練された踊りでリードする。彼女が僕の手をとり、身体を引き寄せる。彼女の動きに合わせて踊っていると、僕の動きも変化していく。やった、輪の中に入った。歓声と熱気と音楽に包まれながら、この一瞬を素直に楽しんでいることを思うとうれしくなる。こんなに興奮したのは久しぶりだ。どのくらい踊ったかわからない。ふだん使わないようなエネルギーを発散させたせいか、身体は疲れていたけれど、この前みたいなずっしりとした疲労ではなく、すがすがしい感じがある。外の空気を吸いたくてガンロックを出ようとすると、誰かが僕の名前を呼び、振り返ると目の前で笑いながら鼻を指差している。手をあててみると、僕は鼻血を出していた。
外国で生活する上でどうしても払いのけられない負荷は、言葉が思うように通じないことだ。自分のことや状況をうまく操れない言語で説明し、意思を提示しなければならない。ふだん特に意識せずに使っている母語とは異なる言語に囲まれて生活することは、思った以上にストレスフルだ。
とは言え、英語は日本でも毎日勉強している教科だし、日常で使うフレーズくらいなら、何日か経てばある程度話せるようになる。英語の授業のクラス分けでは、僕は6つのレベルのうち、5に入れられた。最初にリスニングやリーディングなどのテストを受け、そのスコアによってクラスが決められるのだが、レベル5は全体の中では英語がかなり「できる」方だ。たしかに日本の学校の授業では文法の習熟に力を入れているだけあって、日本人は文法には強い。しかし、文法ができることと実際のコミュニケーションは、関係はしているが別のものだ。言葉がわからなくても不思議と相手と通じ合える人もいるし、文法を完璧に理解し言語能力が高い人であっても相手と簡単にうち解けられるとは限らない。中学の時にマイアミに出発する前、担任の先生がくれた「コミュニケーションはまず心から」というメッセージを、僕はこの場所でもことあるごとに思い出すことになった。コミュニケーションは何よりも、相手と話がしたい、この気持ちを相手に伝えたい、という強い思いから始まる。そして実際のところ、それがすべてなのだ。
ここに来て何週間か過ごしているうちに仲良くなったスペイン人の女の子がいた。名前はルシアといって、年下の女の子だった。たしか三、四歳離れていたと思う。彼女はいつも笑顔でいて、他のスペイン人の女の子たちがみな年上で大人びていたせいか、彼女はおてんばな女の子、という印象だった。ここに集まっている生徒たちはみな英語が母国語ではないから、自分も相手も話す英語が完璧なわけではない。だから簡単な挨拶は別にして、ちょっとむずかしいことを相手に伝えようとしたり、相手が言おうとしていることを受け取ったりするのに骨が折れた。ルシアとは廊下ですれ違う時に笑顔を交わしたり、みんなでバスに乗って出掛ける時に話したりしていた。その内容は、好きな映画とか音楽とか、暇な時は何をしているかとか、そういった他愛もないことだ。いつだったか、バスに乗って出掛けていた時も何気ない会話を彼女と交わしていた。すると突然、会話の途中で彼女が言った。「わたしの話していること、あなたは本当にわかっているの?」いつも笑顔のルシアはその時は笑っていなかった。大きな目はまっすぐ僕を見ている。「あなたはいつもニコニコして、わかっているようにしているけど、本当はわたしが言いたいこと、わかってないんでしょう?」
それが突然のことだったのでうろたえた。でもうろたえてしまったのはそれ以上に、そのことが事実だと認めざるを得なかったからだ。その時ルシアは、自分のことや、自分が興味のあることについて僕に向かって一生懸命話していた。だけど僕が彼女の言うことをちゃんと理解しないまま、曖昧な返事をしていることに腹が立ったのだと思う。ここに来てしばらく経ってから、僕は相手と英語で話す時、理解のレベルを下げるようになっていた。意識的にやっていたことではないけれど、いつの間にかそんな風にして相手とやり取りしていた。理解のレベルが浅くても、なんとなくこういうことかな、と自分で判断して、そこで相手に返答してしまう。
理解のレベルを下げるということは、自分のこと、相手のこと、ひいてはこの世界のことを理解する感度を鈍らせる。ほんとうのことを追いかけようとする時に、最後まで突き詰めずに、道の途中でまあこのくらいでいいかな、と諦めてしまうようなものだ。そういう姿勢でいたら、相手に近づけるはずがない。でも、その時の僕はちゃんと理解できていないこともその先を追うことはなかった。そこで「わからない、もう一度話して」と相手に伝えることもほとんどなかった。だからきっとすれ違いが起こったり、なんとなくスッキリしないやり取りが続いていたのだ。
どうして僕は相手に「わからない」と伝えることができなかったのだろう。そのプロセスを面倒に思った、ということもあると思う。本当に相手のことを理解しようとすることは相当なエネルギーが要る。その努力をしようとしなかった。
他に感情的な理由もあったと思う。会話の途中で「わからない」と言って相手の話の流れを遮ってしまうと相手にすまない、という思いがあった。自分が相手の言おうとしていることを真に理解するよりも、相手に不快な思いをさせたくないと思っていた。わからない、と伝えることが、相手を不快にすると思っていたのだ。そこにあったのはきっと、恐れだったのだろうと思う。わからないと伝えても、相手が諦めずに説明してくれるかどうか。相手ががんばって説明してくれたとしても、自分が理解できずに結局相手をがっかりさせてしまうのではないか。もっと自分に自信があれば、そんな風に恐れを抱くこともなかったのだろう。完璧ではない自分を許し、相手に受けとめてもらうことに対して身を委ねられたのだろう。
いま思えばそのやり取りは、違う文化の中から出てきた者同士が言語の壁を超えて、お互いを理解し合おうとする行為だったのだ。僕はその時、相手とのやり取りがうまくいかないのは言葉が壁になっているせいだと思い込んでいた。英語さえもっと上手に話せたらきっとすべてうまくいくのに、と。でもその時二人をつなぐものは、ほんとうは言葉ではなく、相手を理解したい、自分のことをただしく相手に伝えたい、という思いだけだったのだ。
四週間が過ぎた。人にも場所にも随分慣れてきたし、特に何があったというわけではないのに、心の奥で引っ掛かっているものがある。疑問、かな。その大きさや種類はいろいろだけれど、胸のうちにいろいろな疑問が生まれている。生活の中で、無意識のうちに問うている。この感覚は、それらの疑問に対する答えをまだ見つけられていないことからくるものなのかもしれない。
いまの自分にとって問題となっていることはどういうことだろう?まだぼんやりとしていて、つかみどころがない。なんとなくわかっているような、わからないような感じ。当たり前のこと、考えるまでもないことのような気もするし、同時にものすごく切実で、避けては通れないものだという気もする。それをあえて言葉にすることができるだろうか?もし言葉にできるとしたら、どんな言葉だろう?
アイデンティティ、ってやつかな。自分はどういう人間か、とか、自分とは何か、とか、そういう種類の話。その言葉は知っているが、その中身について、自分自身と切っても切り離せないそのものについて深く考えたり、意識したりすることはこれまでなかった。というよりも、幸か不幸か、そういうことを考えさせるような状況に追い込まれることがなかった。でもここに来て、否が応でもそのアイデンティティとやらに向き合わざるを得なくなる。それは体験によって打ち砕かれ、再構成され、そのプロセスを幾度となく繰り返しながら少しずつ変化していく。いままさに移ろいながら形を変えていく、自分の内奥でうごめくものとしっかり向き合うこと。それなしに先に進めないことははっきりとわかる。
自分はこういうものだ、と信じているところのもの。今回、その像に加わったものは、「東洋人」「日本人」というラベルだった。ここに来て一週間も経たないうちに、僕は同じクラスのスペイン人の女の子に「tino fashion」というあだ名を付けられた。教室や廊下で会うたびに「tino fashion!」と呼ばれる。仲良くなれたようで最初はうれしくて、笑って応じていたけれど、どういう意味なのか気になり、ある時教室で「それってどういう意味?」と彼女に訊いてみた。
「tinoというのは、東洋人という意味よ。fashionというのは、あなたはいつも珍しい、オシャレな服を着ているからそう呼んでいるの」
彼女にそう言われて、僕はうれしいのか、不機嫌になっているのか、自分でもよくわからなくて複雑な心境になった。着ている服を褒めてくれているのなら、fashionだけでいいじゃないか。なんでそこにtinoを付ける必要があるんだ。彼女の呼び方に親しみはこもっている感じがするし、バカにしているわけでは決してないのだろうと思う。でもわざわざそこに東洋人、と付けられることで、その枠の中に自分がカテゴライズされている感じがして、直接的にそう呼ばれる経験はいままでなかったから少し驚いたと同時に、なんとなくいい気持ちがしなかったのだ。
でも、ちょっと立ち止まってこのことを俯瞰してみる。僕が彼女を見るとき、そこにスペイン人というラベルを貼っている。それは意識してやるというよりも、彼女という存在を認識する時に、無意識のうちになされることだ。スペイン人というラベルの他にも、ヨーロッパ人、というラベルを貼るだろう。もしそうなら、彼女が僕のことを日本人、アジア人、というラベルを貼ったとしてもそれはいたって自然なことだ。そういう風に呼ばれて、僕が過剰に反応しているだけなのか?
教室の外に出て、陽の光を浴びる。陽射しが強く、じりじりと肌を焼く。ここに到着してからしばらくのあいだ空を覆っていた雨雲はすっかり消え、青い空が広がっている。僕は木陰にあるベンチに腰掛け、広いキャンパスを見渡してみる。きれいに刈り込まれた芝生の上を、生徒や講師、カウンセラーたちが笑いながら通り過ぎていく。このプログラムには生徒だけではなく、カウンセラーと呼ばれる若者たちが参加していた。ほとんどが二十代前半の大学生、大学院生たちで、いまはアメリカで勉強しているが、生徒同様、世界各国から集まった人たちだった。右も左もわからない生徒たちの面倒を見てくれる、僕たちにとってはちょっと年上の相談相手、というような役回りだ。カウンセラーたちも肌の色はみな違い、生まれ育った環境も、そこに根付いていた文化もそれぞれ。しかし、みな堂々としている。それは年齢によるところも大きいのだろうが、持って生まれたものや、自分なりの考えや価値観を、自分でしっかりと支えているという感じがする。彼らを見ていて、些細なことで躓き、悩んでいるいまの自分が情けなくなったり、大人びたその姿が羨ましくなったりする。
「ふしぎくん」。カウンセラーの一人、マホは僕のことをそう呼ぶ。「ここに君が着いた時から、あ、ふしぎくんだ、と思ったんだよ」と笑う。
マホは、日本人の両親のもとに日本で生まれた。東京の八王子で生まれ育ったということだった。見た目は日本人。でも今や英語はペラペラで、服装はとてもラフ。彼女からはいつも自由奔放さが感じられる。僕は彼女と話していて、日本人らしさよりもアメリカ人らしさとして形容されること(例えば自己主張をしっかりするとか、社交的であるとか)を感じることが多かった。彼女は日本の学校を卒業した後アメリカの大学に進学し、音楽を学んでいた。ここにいるカウンセラーたちは毎年参加している人も多く、カウンセラー同士すっかり打ち解けていて、彼らといっしょに過ごしている時の彼女はとても楽しそうだった。よく日本人は人前で自分のことを説明するのが下手と言われるが、彼女は自分のことを英語でしっかり伝えたり、笑ったり怒ったり冗談を言ったり、ありのままに感情を表現していた。彼女は日本人とか東洋人としてそこに存在しているわけではなく、彼女自身としてそこにいる、マホ自身がそこにいる、という感じがした。それは、他のカウンセラーも同じで、一人ひとりのキャラクターが際立っていた。
ここでは毎日あたらしいことに触れて刺激的だったけれど、しばらくすると日本での生活が恋しくなったり、授業や他の生徒とのやり取りでペースがつかめず、落ち込むことも多かった。マホはそんな僕を気にかけてくれ、よく声をかけてくれた。僕はいつだったか、「マホは日本に帰りたいとは思わない?」と訊いてみた。するとすぐに「うん、あんまり興味ないんだ」という答えが返ってきた。「こっちの方が自分に合ってる」
僕にはその潔さが新鮮だった。彼女は自分のやりたいことや、自分に必要なものがちゃんとわかっているように見えた。そうなれたら生きやすいだろうな。自由って、そういうことではないだろうか。だって何をやってもいいよと言われても、自分が何をしたいのか、何を欲しいのかわかっていなければ決して自由とは言えないのだから。彼女から感じられる自由さというのは、そこからきている気がした。
日本人とか、東洋人とか、そのラベルを誰よりも気にしていたのは僕自身だったんだ。そして、その奥にあったのは、国籍とか人種ではなく、自分という存在をちゃんと見てほしい、みとめてほしい、という思いだった。僕にとってのコミュニケーションというのは、そこにあるのかもしれない――その領域で真に人と通じ合えたなら、ほかに欲しいものなんてなくなってしまうのではないだろうか。自分たちはつながっているという手応えのようなものをたしかに感じられたなら。
僕にとっては「日本人」というのも自分のアイデンティティのひとつだが、それ以上でも以下でもない。その要素の他にいくつも、自分にしかないもの、自分固有のものがあると信じている。それは他の人たちも同じ。この世の誰もが自分だけのものを持っている。コミュニケーションというのは、そのことに気づき、自分のものをしっかりと受けとめ、それをまわりの人たちに伝えたり、また受け取ったりすることではないだろうか。
最後の週に、タレントショーというイベントが企画されている。このプログラムの全参加者がホールに集まり、希望者はステージの上でパフォーマンスを行う。音楽でもダンスでも、その他のパフォーマンスでもなんでもいい。タレントショーはこのプログラムのメインイベントのひとつで、日本でいう文化祭のようなものだ。前年のビデオを見せてもらったが、生徒、講師、カウンセラーそれぞれが行うパフォーマンスに客席から歓声が沸く。すごい盛り上がりだ。
いま、今年のタレントショーに向けて参加者を募っている。僕は鹿児島からいっしょに参加している藍と珠輝と三人で、書道のパフォーマンスを行うことになった。でも、ビデオの映像を見ている時にある考えが頭に浮かんでいた。タレントショーで、自分一人で何かパフォーマンスをすること。僕は人前に出たり話したりすることが得意なわけではない。だけど、もしかしたら、これは自分のことをみんなに伝えられるいいチャンスなのかもしれない。ふだんはうまく伝えられないことを、少し違う形で伝えられるかもしれない。何がいいだろう?おれにできること、何かないかな。
タレントショーへの出場者の締め切り日、担当のボビーが希望者に向けてガイダンスをしている。その中には唄が上手なドミニカ出身のレスリーや、バンドを組んだスペイン人の男の子たちがいる。しばらく迷った後、意を決してボビーに話しかける。「あの、僕もタレントショーに出たいんだけど」
ボビーは驚いたように僕を見ている。「何の話だ?君は書道のパフォーマンスをするんじゃないの?」
「はい、でももう一つ、僕一人でパフォーマンスをしたいんです」
「もうかなりの出場者がいるし、さっき締め切ったところだよ。ところで、何をやりたいの?」
「唄をうたいたいと思っています。ピアノを弾きながら」
彼は参加者のリストを見ながらしばし逡巡し、「オーケー。ギリギリ間に合ったよ」と言った。
その日から僕は授業が終わった後、キャンパスにあるチャペルでピアノと唄の練習を始めた。
ここにいる間、ノートに書き連ねた言葉。
「もっと話せるようになりたい」
「まずは、一人一人とちゃんと話してみることから始めよう」「話すことを恐れていたら何も変わらない」
「もっと普通に話したい。いちいち会話をためらう自分がもどかしい」「単語を並べるだけでもいいからコミュニケーションを取ろうとする心だけは忘れないようにしよう」
「ただ、ありのままの自分を出していればいい」
「ちゃんと英語で自分の気持ちくらいは伝えられるようになりたい」「ありのままの気持ちに従おう」
「もっと一人の“人”として見て欲しい。そして自分も壁をつくらずみんなと一人の“人”として接したい」「自分の壁をなくそう。ずっと笑っていよう」
「少しずつでいいから、前進しよう」
頭では、わかっているんだ。頭では理想の姿を何度も思い描くのだけれど、実際にその場面に身を置いた自分は理想の姿からは程遠くて、おれには無理なのかな、と諦めたような心持ちになってしまう。
アレクサンドリアという街にみんなで出かけた時のこと。校外を散策する時には僕はいつも誰かといっしょだったけれど、その時はなんだか一人になりたくて、一人で街を歩いていた。水辺にある街で、陽が沈んでからも波の向こうをずっと眺めていた。誰かに「どうしたの?」と訊かれても、「ううん、なんでもない」としか答えられなかった。頭の中にある前向きな言葉と、前を向こうとしない心がぶつかって、ちぐはぐになる。「自分」を形づくっているはずの境界も曖昧になってしまうのだから、こんな時はうなだれてしまうほか仕方がない。視界が狭くなり、暗いモヤモヤしたものに心を覆われる。自分がリアルな感情そのものになり、身体をすっかり拘束されてしまったように感じる。八方塞がりで、出口はどこにもない。自分がどうしたいのか、何を求めているのかさえわからなくなる。自分であることをやめてしまいたい。そうして一人で、自分自身の底に落ちていく。
バスに乗ってキャンパスに戻り、やっと寮の部屋に辿り着いた。消灯された部屋でベッドの上に横になり、目を閉じる。
今日はおれはどうしたかったのかな。夜の水辺と、水面に映った灯りを見つめているシーンを思い返す。考えがうまくまとまらず、ため息をつく。あぁ、日本に帰りたい。ベッドの引き出しに手を伸ばし、出発する前にクラスメイトが僕に贈ってくれた一冊のノートを取り出して、携帯電話の仄かな明かりの中でそれを読む。その小さなノートには一人一人のメッセージが書きこまれ、クラス全員で写っている写真も貼ってあり、制服を着たみんなが笑っている。僕はここに来てから何度もそのノートを開いていた。
いま頃みんなどうしてるかな。日本はちょうどいま朝の八時頃で、補習を受けている頃だ。日本ではもう「明日」なんだ。遠いな。つい何週間か前までいっしょに生活していた仲間たち。高校三年生は受験生でもあって、みんな日本で変わらぬ日常を送りながら、受験勉強に励んでいる。それなのに自分だけ一人、遠く離れた場所にやって来てしまった。戻ろうと思っても、簡単に戻れる距離ではない。そのことが、僕をたまらなく不安に、孤独な気持ちにさせていることに気づいた。
「その遠さが、何かを学ぶときに必要なのかも」そう書いてくれたクラスメイトがいる。自分がいまここにいるのは、自分で選んだことだろう?自分の選択に他ならないのだ。たった六週間とはいえ、こんなに不安になる自分を冷静に見つめてみて、これまで歩いてきた道のりの中で経験した、自分で選ぶ、自分で決めるという行為の重みが、今回のプログラムに参加したことで少し変化したことを知る。たしかに、この距離がなかったら、こんな風に自分自身と向き合うこともなかっただろう。自分について、他者について、身の回りで起こっていることについて、疑問をもったり、意識してそれらと対峙することもなかっただろう。
思うこと、感じることに責任をもつのだ。それは他の誰でもない、紛れもなくこの自分が思ったり感じたりしていることだ。コントロールできずにすべてを投げ出したくなるような衝動に耐え、何物にも代えられない自分という存在を静かに受けとめる。それは、たぶんいまの自分が身につけなければならないことなのだ。それができなければほんとうに自分に自信をもつこともできないし、これから自分自身を支えることもできないだろう。
瞼の裏に家族や友人たちの顔が浮かぶ。出発する前、手を振って送り出してくれたみんなの姿と、胸に吸い込んだ新鮮な空気、その時に抱いたたしかな希望を思い出す。いつも誰かがそばにいて、僕を支えてくれていたんだ。飛行機が離陸する瞬間、ぜったいに何かを掴んで帰ろうと胸に誓ったことを思い出す。
自分の奥底で、何かが動く。あたたかいものがこみ上げてきて、涙が流れる。
コツン、と音がして底に足がついた。身体が地面に触れる。どんなに深く沈んでも、ちゃんと底があるのだ。大丈夫。
しばらくしたら、そこで問いはじめている。
何をしにここに来たのだ?何のためにここにいるのか。
ここにいられるのも、あと数日しかないことを思う。目の前で、かけがえのない「いま」が過ぎ去っていく。今日は一人で過ごしたけれど、ほんとうは誰かに声をかけてほしかったのかもしれないな。努力してみたけれどうまくいかなくて、どうでもいいと振り払うような気持ちになっていた。でもほんとうはずっと、みんなといっしょに笑いたいと思っていた。せっかくいまこの場所で出会えたのだ、心の底から大声出してみんなと笑いたいよ。そのイメージを、自分自身の底でもう一度ちゃんと掴む。それを掴めたなら、明るい方を目指してまた登っていける。
視界の広さと心の余裕を少しずつ取り戻していく。自分の内面だけでなく、外で起こっていることにも意識を向けられるようになる。陽のあたる場所に出て、もう一度はじまりの地点から歩き出す。今度は進む方向をしっかりと見定めて。
それから最終日までの時間、僕はいろいろな場所を訪れ、たくさんの人たちに出会った。美術館や大学、大使館。郊外の町やビーチ。現地の生徒とのディベート。自分たちでそれぞれの国の料理を作って食べるディナー。仲良くなったカウンセラーが家に連れて行ってくれて家族を紹介してくれたり(彼のお母さんが美味しいアップルパイをご馳走してくれた)、現地に住む同じクラスの日本人の女の子が自宅に招待してくれ、彼女のお母さんが作ってくれた日本食(カレー、唐揚げ、うどん、コロッケというフルコース)を囲んで食事をしたりした。日々変わらず気持ちの波があり、戸惑うこともあったけれど、どれも楽しいひと時で、僕に多くのことを感じさせ、また考えさせた。
タレントショー当日。あまり練習の時間を取れず、舞台の上でちゃんとパフォーマンスをやり切れるかどうか自信がなかった。でも不思議と不安はない。たしかに準備は充分ではないかもしれないが、やれることはやったのだ。そして、パフォーマンスのために準備するプロセスを僕は楽しんだ。
僕はチャペルで過ごす時間が好きだった。そこは静かで、厳かで、キャンパスの他のどの場所とも違っていた。ピアノの前に座っているだけで心が落ち着いたし、そこで唄ったりピアノを弾いたりするのも好きだった。藍のピアノと珠輝の唄を聴いているのも好きだった。今日でその時間も終わりか、と思うと寂しくなる。間も無くショーが始まる。ホールに向かう前に、短くお祈りをしてチャペルを出た。
ステージ袖に立つ僕に、マイクが渡される。前の人のパフォーマンスが終わるまでのわずかな時間、これまでここで体験したことを振り返ろうとする。でも、緊張で頭の中に像を描いても一瞬で吹き飛んでしまう。履いている革靴の鮮やかな茶色を、見るともなく見ている。かすかに震えている気がするけれど、自分が空っぽになるような、それでいて、袖から先に続く明るいステージに高揚を感じてもいる、不思議な心持ちだ。
前の人のパフォーマンスが終わり、ピアノがステージの中央に運ばれ、マイクがセッティングされる。僕のためのステージ。
ボビーが合図する。「さぁ、出番だ」
僕は一歩ずつ、ステージに向かって歩き出す。袖からステージに出る瞬間は夜と昼の境のようだ。暗いところから一瞬で明るい世界に入る。スポットライトが当てられ、眩しくて観客席がよく見えない。ピアノのあるところまで歩いて行き、楽譜を置く。椅子に座る前に、ステージの先に立ち、マイクを持って言葉を発する。
「僕はみんなに会えてよかったです。みんなのことが大好きです。アメリカで出会った全ての人たちに感謝しています。」その時知っている単語と文法で、そう伝えた。客席から拍手と、僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。あぁ、伝わったのかな、と感じる。足がガクガク震えていたし、たぶん声も震えていただろう。英語もパーフェクトじゃなかっただろう。でもとにかく自分の思いを伝えられてよかった。ボビーが舞台袖から僕のいるところまで歩いてきて、握手し、ハグをしてくれる。
ピアノのところへ戻り、椅子に腰掛ける。そして、右手の親指をGの鍵盤に置く。ひとつ深く呼吸をして、弾き始める。Green Dayというバンドの ”Wake Me Up When September Ends” という曲。演奏している時のことはあまり覚えていない。心を空にして、ただチャペルで唄っていた時のようにピアノの鍵盤を押さえ、声を響かせた。あっという間に曲の終わりに近づく。最後の一音を弾き、指を鍵盤から離すと、拍手が聞こえた。終わったんだ、と思った。
*
振り返れば、あの時の迷いや痛み、もがきはすべて通過点だったとわかる。でもそれは、そのポイントを過ぎたから言えることで、その渦中にある時は目の前にあるものがすべてであり、それを乗り越えることは自分にとって避けることのできないチャレンジだった。そのことに向き合わなかったからと言って、きっと明日はちゃんとやってきたし、違うシナリオが用意されていたのかもしれない。でもその筋書きに自分が納得できるかどうかは、自分の心が知ることだ。嘘がつけない領域が、人生にはあると思う。
きっとこの先もまた、何度も壁にぶつかり、進むべき方向がわからなくなって足が止まってしまうだろう。慌て、ジタバタして、知らんぷりをしたりべそをかいたりした末に、自分を困らせる何かと腹をくくって戦うことになるだろう。その時に自分を導くものは、深いところで感じていることと、心の根っこにある思いだろう。それがいちばんたしかな羅針盤となる。
自分が感じていることをシンプルに掴むためには、まずは恐れを乗り越えることだ。この世界の道理を知り、流れる波に身を委ねられるようになること。心を落ち着かせ、感覚を研ぎ澄ませる。それができない時には、ただもがくしかないのかもしれない。でもいずれにせよ、身体と心を動かしていれば何かにぶつかり、その度に何かを感じ、そうすればどちらに進みたいか、方向性がわかってくるはずだ。自分の内にも波が起こり、いずれ自分を動かす力強い何かを再び感じられるようになるはず。そこに辿り着くには、時には暗い波の中を泳がないといけないこともあるかもしれないが、勇気を振り絞り、進んでみる。一度泳ぎ方をおぼえれば、身体と心が忘れることはない。
立ち止まってもいい。そこで、自分の思いをたしかめること。準備ができたら、そこからまた物語の続きを書いていく。それはいつ、どこにいても、何も持っていなくたってできる。物語は自分が立っている場所、見ている景色、いまここにある思いから始まり、それは他の誰でもない、自分自身が書くものなのだから。
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Summer has come and passed
The innocent can never last
Wake me up when September ends
Like my father’s come to pass
Seven years has gone so fast
Wake me up when September ends
Here comes the rain again
Falling from the stars
Drenched in my pain again
Becoming who we are
As my memory rests
But never forgets what I lost
Wake me up when September ends