Letter 02 もうひとつの目 この街の路線図を広げて
がらんとした部屋の床で、毛布にくるまって眠る。昨日までここは自分の部屋だったのに、家具がなくなり、使っていたモノたちが段ボール箱に詰め込まれ、残ったのは入れ物としての空間だけ。ベッドの上からではなく、固い床の上で仰向けになって天井を見つめる。窓の外を見やる。目線の位置が変わるだけで、ふだん見ていた景色ががらりと変わる。いつも何を見ていたのだろう、こういう状況にならないと気付かないことがたくさんある。
棚にぎっしり詰まった本を段ボール箱に詰めていく。大学生の頃に読んだ本、読もうと思って買ったまま、まだ読んでいない本もたくさんある。いつかタイミングが来るまで、開かれるのを待っている本たち。箱に入りきらなくて、いくつかの文庫本や雑誌を古本屋に持って行く。今渡るべき人たちの手に渡っていけばいい。
台所にあるものを整理する。箸、フォーク、ナイフ。鍋、フライパン、栓抜き。小さなすり鉢や弁当用のミニカップ。計量器やトング。狭い場所でも物を置けるように、百均で買ったボードとプラスチックケースを工夫して作った収納スペース。民藝品店で買った皿や、もらった陶器。全部は運べないから、食器を引き取ってもらえないかと近くのリサイクルショップに問い合わせてみたけれど、一度使った食器は引き取ってもらえないらしい。まだ使えるというのに、部屋の退去日が迫っている今の状況では、燃えないごみとして処分するしか方法を思いつけない。冷蔵庫や洗濯機、炊飯器、トースターは回収業者に引き取ってもらった。一人暮らしを始める時に両親が買い与えてくれたものだ。ベッドや本棚は自分で買って、友人に手伝ってもらいながら組み立てた。それも回収されていった。タイムリミットの中で選択を迫られて処理したもの。もっといいサイクルにつなげることはできなかっただろうか。
もらった壁飾りや、ミニチュアのトーテムポール。片目の達磨。プレーパークで子どもたちにもらったリボンは鞄掛けの棒にくくり付けていた。冷蔵庫につけたマグネットや、壁に貼ったポストカード。ウィスキーやワインや焼酎のボトル。それらを箱にしまいながら、これまで何もなかったところに、自分なりに暮らしを作ってきたんだと思った。それがガラガラと音を立てるようになくなっていって、心許ない思いがする。自由になる、という感覚もあるけれど、それよりも自分を構成していたものの一部が解体されていく感じが大きい。毎日の繰り返しの中で当たり前の存在になっていたけれど、これも自分にとって大事なものの一つだったんだ。ただの生活の手段というだけではなくて、この部屋が精神的な拠り所にもなっていたことに気付く。ただの箱としての空間になって初めて、そのことに思い至る。
一度この場所を離れよう。かつて身を置いていた場所にしばらく戻った方がいいのかもしれない。今年一月、東京で借りている部屋の契約を更新せずに、三月に部屋を引き払って実家のある鹿児島に戻ろうと考えた。東京に住み始めて十年が過ぎた。これまでやってきたことを振り返りながら、住む場所や仕事について改めて考えてみる。
ここでなければいけない理由は何だろう?そもそも自分がここでやろうとしていたことは何だったか。 ――思いや感情を表現したい、表現できる場が欲しい。ものづくりがしたい。そういう思いで選び、表現に携わる仕事に就けたと思った二十代前半、生活から暮らしの部分がなくなってしまった。あの頃は深夜まで働いて、タクシーに乗って家まで戻っていた。家で食事を作って食べることもほとんどできなかった。表現する仕事って、暮らしを犠牲にするものなのか?ものづくりって、そんなに特別なことなのか?もしかしたらこの場所で自分が思い描く活動をすることは無理なのだろうか。ふっと生まれて沸いてくる疑問。そもそも自分にとって、表現とは何だろう。どんな形で思いや感情を表現したいか。世の中にあるどんな表現を受けとっているだろうか。人によってアートのあり方は一様ではないし、かんたんに答えが出るわけではないことはわかっている。時計の針を見て、疑問を胸に浮かべたまま部屋を出る。
轟音を立てながら目の前を電車が通り過ぎる。踏切の前で、電車の箱の中で揺られながら運ばれていく人々の顔を見つめる。たくさんの顔。それぞれの時間、それぞれの人生がある。並んだ顔の中に、自分の顔を見る。窓越しにぼんやりと外の風景を眺めている。たくさんの屋根、ビル、公園、学校、川。彼方に見える稜線。
次はどこに向かう?常に自分に問いかけている。電車は走り続け、駅に止まるとドアが開いてはまた閉まる。次の行き先に向かう電車に飛び乗る一瞬を逃さないようにしなきゃとアンテナを張る。いくつもの線が走り、交差する。駅から駅へ。今の自分から、次の自分へ。束の間、何者かになり、また何者でもなくなる。常に自分があたらしくなっていき、どんなことでもできそうな感覚を覚えると同時に、何者でもなくなり、移ろう者、虚ろな存在として彷徨い歩いてもいる。
いくつもの路線、いくつもの道。ほんとうは無限の組み合わせのパターンがある。それでも毎日同じ路線の組み合わせで、同じルートしか通らなくなる。自分で選んで今日この道を歩いている、そうわかっているのに、見慣れた景色と繰り返しの毎日の中で、はじめの思いが淡くかすんでいくように感じられる。
「国際宇宙ステーションは90分で地球を1周します。45分間は昼間の景色が見え、そのあと次の45分間は夜の景色が見えます。夜はとても暗く、星たちは輝いています。天の川がずっと伸びて広がっています。私たちの青い惑星・地球は広大な宇宙空間の中にあるオアシスのように見えます。」漆黒の闇に浮かぶ青い球体、その周りを旋回する、直線的な形をした精密機械。視線が切り替わる。塾の教室。机の上の教科書にある、宇宙空間から見た地球の写真。「この文、どういう意味ですか?」生徒に質問されて、単語の意味を把握し、語と語をつなぎ、文全体の意味を浮かび上がらせていく。青い空や、雲や、吹き抜ける風が、そこに立っている自分や、日々起こるこまごまとした出来事が、ぜんぶこの青い天体の上で起こっているなんて、ついに実感がわかない。
授業を終え、教室を閉めて帰途へ着く。ネオンで彩られた街。道行く人たちとすれ違いながら駅に向かい、改札を通る。電車の中で、さっき見た青い地球の姿がふと脳裡に浮かぶ。まわりの景色がさっと色褪せる。夜と朝の訪れを受け入れる地上でいろいろなことに出会い、感じ、思う毎日を、宇宙から見つめるもうひとつの目。人間はがんばってこの目を手に入れたんだな。この目を手に入れることで初めて見えてくる道筋があるだろう。
電車は池袋に着き、乗客たちを一斉に吐き出す。仕事帰りのサラリーマンたちや、笑いながら話す学生たちの群れ。きっとみんな思い思いに、別々のものを追いかけている。改札に向かう群集の中を歩きながら、これから先、疲れや迷いに視界が狭くなった日も、自身を見つめるもうひとつの目を失くしたくない、と思う。どんな場所にいても、何をしていても。
異質な素材が集まっては散らばる巨大な波の中で、自分で自分に合う接面を見つけ出していかなければならない。渦の中に飛び込んでいくような心持ちだ。内にあるものと、内で感応した外側のものをつなげようとする。感覚を研ぎ澄ませながら、響き合うものを探しながら。映し出されては消えていくイメージや、音や言葉が揺らめく街で、たくさんのものを知覚し、受け取りながらも、自身の奥深いところで手にしたものを失くしたくなくて、それを両手で抱えるようにして歩いていた。外に開いていくよりも、内側で掴みとったものを守ることで必死だった。それを信じたいと思う心と、外側で起こっていること、自分を取り巻く環境とのギャップに、何度も躓いた。
それでも少しずつ、ふっと息を抜ける場所を見つけていった。自分の呼吸やリズムを大事にできるスペース。複雑に絡まったものごとから自分が解き放たれ、リセットされる場所。場所との向き合い方、距離のとり方を覚えていった。気が向くといろいろなスポットを歩きながら、どこに何があるのかを見てたしかめ、自分の内なる地図に書き込んでいく。ちょっとずつその地図が詳細に、ディープに、自分だけのものになっていくのがうれしかった。
東京で一人暮らしを始めて年数を重ねるにつれて、暮らしというものは一人では完結できないものだとつよく実感するようになった。住む部屋があって、そこで単に寝起きを繰り返すだけでは「暮らし」にはならない。やるべき仕事があって、友人たちがいて、新鮮な食べ物を手に入れられる環境があって、ほっと息をつけるカフェや広場があって、地域の人たち同士が集まれる場所があって、そんないくつもの要素が揃って初めて成り立つものなのだと。そして、そこに住む人たちと日々会話をしたり、時々出掛けたり、ともに何かを作ったり、同じ時間を共有することで暮らしが彩られ、濃く、豊かになっていく。そして、その時間が積み重ねられることで人と人が結ばれ、人と場所が結ばれ、物語が紡がれていく。この部屋の棚に並んでいる本たちも、そんな暮らしの中でそれぞれのタイミングで手に取られ、読まれながら、ひとつひとつのエピソードがつながり、やがて大きな地図になり、僕に何かを見せてくれるにちがいない。それは、ゆっくりと時間をかけて育てていくべきものだ。まわりにいる人たちと対話したり、近くの大きな公園を歩いたり、日々の仕事をこなしていく中でそのことに思い至ってから、この場所を離れることがとても惜しくなった。一度は帰ろうと心に決めたのに、思いはまだこの場所にとどまっている。ここで出会った人たちがいて、愛着をもって暮らし始めた場所がある。この場所で重ねた時間があって、気づきがあって、ここで始めたことがある。それをもっと育てていきたい。一度思い描いたことをちゃんと形にしたい。
この場所にとどまるなら、もっといい方法はないか?毎日の生活の中で、ちょっとしたことを工夫し、変えてみたらいい。例えば、住まいの形や、支出と収入のバランス。都会での住まいのあり方を改めて考え、調べてみる。あれでもない、これでもないと思うなら、オルタナティブ(もうひとつの選択肢)を見つけることだ。シェアハウスは近頃よく聞くけれど、コレクティブハウスというものがあると、今回初めて知った。異世代間ホームシェアというのもあるらしい。こういう方法ならもしかしたらうまくやっていけるんじゃないか。最近興味が出てきた農については、パーマカルチャーを学び、できることから実践していくのもいい。
そうして、部屋の退去日ギリギリまで物件を探して問い合わせたり内見したり、直前まで走ってみたけれど、条件やタイミングが合わず、結局ピンとくるような部屋は見つからなかった。ゲームオーバー。
部屋の退去日の前日、仕事の後で、友人と向かい合ってここ数ヶ月のことを振り返りながら話していた。この街で生活してきた数年間の月日のなかでやろうとしたこと、実現したこと、うまくいかなかったことがフラッシュバックして、気付いたら涙がこぼれていた。あくせく走って、走って、何かをつなぎとめようとしてきた。何を?おれは一体何をつなぎとめようとしていたのだろう?自分の外側の世界で動いている人や物の流れが、何か違うルールに支配されているように思えた。その流れを横目に見つつ、一人でもがいて、自分に託されたロープをどこかにつなぎとめようとしていた。自分に託されたロープがあると思っていた。
「一度鹿児島に戻って、ゆっくりしてきたら?」友人が言った。一度静かな場所に戻って、これまでのことを振り返り、これからのことを考えること。たぶん、リズムを取り戻すことが必要。自分自身のリズムを。引越し作業を手伝ってもらいながらなんとか終え、東京に住んでいる弟の部屋に転がり込んだ。
この街に張り巡らされた路線。「正しい」とされる最短ルートを途中で降りて、時には歩いてみてもいい。目的地はまだ見えないし、もっと先にあるもののような気がするから。訪れたことのない駅が、場所が、まだまだたくさんある。入ったことのないカフェに入ってみてもいい。道の途中で出会った人に話しかけてみてもいい。そこに、まだ行ったことのない場所への扉が開かれている気がしている。そんな思いを胸にしまい、空港行きの電車に乗って東京の街を眺める。