Letter 01 世界とつながる感覚 曲作りについて
雨が降る。いつまでも、このまま際限なく降り続きそうな雨。
濡れた道路に落ちる雫が波紋をつくる。そこを歩いていく僕の靴が、もうひとつの大きな輪をつくる。緑が濡れて、視界にくっきりとした鮮やかな色を残す。くぐもった空、何かが立ちこめている。夕方の、仄かに香る煙、つんとしたつめたい空気。霧のかかった森。立ち止まり、空を見上げる。雨粒が頬をうつ。その場所にいながら、身体がまわりの景色と一体となったような感覚が生まれる。どこからか浮かんできたメロディーを口ずさむ。遠い場所からか、記憶の奥底からか。その空間に声が響き、束の間空中に漂い、消えていく。自分の内側にもうひとつの世界が立ち上がり、広がっていく。そこには歓喜の叫びがある。
僕がこれまで生きてきた時間のなかで、そのような瞬間がいちばん世界とつながっている感覚があった。身体のなかにある窓をすべて開け放てば風が吹き抜けていく。自分とまわりの境界線が消え、ひとつになる。自分が世界全体になる。その時、この世界を、この世界に存在していることを、どこまでもどこまでも慈しむことができる。
でもそんな感覚は一瞬にして過ぎ去ってしまい、気付けば濡れた身体で道端に立ち、呆然としている。ねぇ、今の感じ、何だったんだろうね?とても不思議な感じがしなかった?隣にいる人に話しかけても、自分が感じたことをうまく伝えることができない。もしかしたらその人は別の何かを見ていたのかもしれない。同じものを見ていたとしても、その人にとっては、別に不思議なことでもなんでもなかったのかもしれない。それでも、さっき味わった感覚はまだこの身体のなかにたしかに残っている。その時に見た情景を、感じとめたことを形にしたくて、もう一度そこに戻りたくて手を伸ばす。ずうっと高いところ、天空に透明なラインがあって、そこに手を伸ばす感じ。だけどもうそこに手は届かない。
その時から、格闘がはじまる。一度は触れたのに消えてしまった世界を、ふたたびここに取り戻すための。
思いつく限りの方法を試した。――感じとったことを、一つひとつ言葉にするようになった。何と表現したらいいのかわからない感情やものごとの感じ、微妙なズレや違和感に気付いたらそのまま通り過ぎずに立ち止まり、それらを表すためのより正確な言葉を納得できるまで探した。たくさんの小説を読んだ。その日起こった印象的なことを日記に書き綴った。頭に浮かんだ短い言葉や、出会ったフレーズを手帖に書き記した。つかみどころのないイメージを、イラストや図にしてみた。そして暇さえあれば、街から街へとあてもなく歩いた。詩を書いてみたり、油絵を描いてみたり、映画を観たり、映画を作っている人の話を聴いたり、芝居に挑戦したり、物語を書いたりした。その過程で少しずつ、少しずつ、曖昧模糊としていた自分という存在の輪郭をたしかめられるようになっていった。自分なんてどこにもないように思える一方で、どうしたって動かせない強いこだわりや、どんなに分解していっても割り切れないものがそこに残った。それが、「自分」というものなのかなと思うようになった。
大学を卒業しようとしていた時期、僕の胸にあったのはただ「表現者になりたい」という思いだけだった。十代の終わり、それまで漠然と抱いていた思いを初めてはっきりと言葉にした。その言葉が変わらず胸の内にあって、でも具体的に何を表現したいのか、どうやって表現できるのかわからなかった。何も手に持たず、何の技術もない今の自分にできることは文章を書くことだ、物語を書いてみよう、と一度はそう思ったけれど、気付いたら鍵盤の前に座っていた。白と黒の細長いブロック。指で叩けば鳴る、なつかしい音。子どもの頃から慣れ親しんだ、しかしまだ多くを知ってはいない楽器。選ぶ、という言葉が使えるほど意識的に選択したことではない。気付けばまた鍵盤に惹かれ、指が触れていた。そして、自分が感じたものや見た情景が音楽になることを思うと、ふつふつと昂奮が沸き起こってきた。子どもの頃、カーステレオで聴いた遠い国の曲。スピーカーに耳をそばだてて聴いた曲。眠れない夜にイヤフォンを耳にあてて聴いた曲。音楽はいつもあたらしい感情を与えてくれ、僕をどこか別の世界に連れていってくれた。その曲を作った人が、その人の頭のなかや心の風景を見せてくれているようだった。そんな風に、僕も頭のなかにあるメロディーを、情景から喚起されたイメージを音楽にしてみようと思った。
しかし実際に曲作りというものを始めてみると、鍵盤でメロディーを弾くことはできても、思い描いた情景を表現するような音はかんたんには鳴らなかった。ひとつの曲、その音楽のなかには本当にいろいろな要素があることがわかった。骨格の組み立て方、旋律の進み方、音の重ね方、音の響き。自分は音楽のことなんて何も知らなかったんだと思った。それぞれの要素について考えれば考えるほど迷路に入り込み、そこから出てくることができなくなりそうだった。そして、高いところに手を伸ばそうとすればするほど、雑多なイメージや言葉が頭に渦巻き、心がざわつき、息苦しくなって何度も地上に引っ張られた。日々の仕事や生活のなかで、曲のことを考えたり、音楽を作る時間を確保することができなくなった。日常の何やかや、些細な出来事によって、イメージは闇の彼方へ追いやられ、そこへつながる見えない糸はプツンと切れてしまいそうでもあった。
一方で、曲の情景をイメージしたり、曲作りに集中することが困難になればなるほど、それがかけがえのないものであり、自分の生になくてはならないものだということも、またはっきりした。それはたぶん、何かの加減でかんたんに失われてしまう何かであるような気がした。心の向きが微妙に変わるだけで見えなくなってしまう。さっきまでここに確かにあったのに、ちょっと油断していたら永遠に消えてしまうような何か。そういうものを、真空の瓶に入れるようにして、大切にとっておきたいと思った。慌ただしくても前に進むしかない日常のなかで、見えない枠の中に押し込められているように感じた時、曲のイメージを思えば、また少しだけ自由に呼吸ができるようになった。そして、言葉に託せず、伝えたくてもうまく伝えられないものを、曲という形にすることによって、自分以外の誰かにも伝えられる気がした。
昨日までに形にした音に、今日頭の中で鳴っている音を重ねる。音色を選び、その音の湿り気や光度を調節する。その作業は書くことにも似ているし、手の込んだお菓子作りにも似ているし、やってみたことはないけれど原石を磨いてジュエリーを作ることにも似ていると思う。無造作に転がっている素材を削ったり磨いたりしながら形をととのえ、調合し、あるべき場所へと配置する。するとそれらは互いに手を結び、響き合い、その場所に意味をもって存在しはじめる。あるべきものが、あるべき場所にきちんと収まっていること。心地よさを感じるものはみなそういう風に在るのだと思う。
何もないところに曲を立ち上げるのは初めは投げ出してしまいたくなるほど難儀だけれど、曖昧だったものから少しずつそれ自身の様相があらわれてくるのを目の当たりにするのはとてもスリリングだ。時間をかけて音を重ね、音を磨いていくと、気付いた時にはそこに空間が立ち上がっていた。その空間のなかで前へと進んで行く感じや、奥行きが感じられるようになっていた。そこで自由に手を伸ばしたり駆け回ったりできるようになった。
『Crystal line』という作品は、ほとんどを自宅の部屋で、一人で作った。その過程は、音楽をやるというよりも、書く作業に近かったと思う。それは自己省察であり、自己確認であり、実験の場でもあった。最初にこういうものを作りたいと思い、そのイメージが頭に浮かんでから、形になるまで七年近くの時間がかかったけれど、その中で辿った過程はその時々の自分に必要なものだったのではないかと思う。そして、こういうものを作りたいのだけど、とイメージを伝えて演奏をお願いすると、快く引き受けてくれた何名かのミュージシャンたちは、曲の世界観をずっと広く、深いものにしてくれ、最初は僕が思い描けなかった地点にまで曲を導いてくれた。その場所に、まだ体得していない、音楽という表現がもつ豊かな土壌が広がっているのではないかと思う。
作品という形あるものを創作するなかで実感したことは、一人の人間として生きていく上での困難さや課題が、そのまま作品の表現に通じているということ。そして、自分にとっての切実な問いに一つひとつ答えを出し、乗り越えていけるかどうかは、作品に、自身の表現に確かにあらわれていくだろうということ。これ以上でもこれ以下でもない最初の作品として、まず自分自身がこのアルバムを両手でしっかり受けとめようと思う。