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2018-01-28

Letters はじめに

 いつからか、書くことが僕にとって大切な作業になっていった。一日の中である一定の時間が、書くという行為に充てられるようになった。きっかけは何だっただろう?慣れ親しんだ場所を離れ、新しい環境に身を置き、大学で文学の授業を受けるようになったことは大きな要素としてあると思う。言葉について書かれた本を読んで、改めて言葉というものについて考えてみたことも要因として大きい。それまで考えたことがなかったこと――当たり前のこと、ありふれたこと。考えるまでもない(と思っていた)こと。そういう事柄について、じゃあ君はその「当たり前」のことについて何を知っているのか、と問われて、そんな問いに出会ったのも初めてだったので、そこで立ち止まって真剣に考えてみた。もっとも、考えてもよくわからなかったし、そもそもうまく考えられているかもわからなかった。でも、これが「考える」ということなのか、つまり言葉を使って自分の頭で考えることなのか、と視界が開ける思いがしたことを記憶している。
 でも何より、身のまわりで起こる出来事や自分が目にするもの、意識が向かうもの、心をとらえて離さないものごと、それがどういうことなのかを理解するために、いや、それよりまずは混乱した頭を整理したり、ざわついた感情を落ち着かせたりするために、書く、ということが自分に必要だったのだと思う。そして、選択を迫られた時、自分が置かれている状況を俯瞰し、進もうとしている道が正しいのかどうかを確かめるために、どうしても書く必要があった。

 初めはノートに、出会った言葉や、「これは大事なことだ」と思ったこと、印象に残った言葉を書き留めていった。そのうちに、日々見たり聞いたり考えたりすることが流れ去ってしまわないように、三年間分の記録ができる一冊の日記帳を買い、一日ずつ日記をつけ始めた。めまぐるしく景色が変わっていく毎日の中で、今ここに立っている自分を記録すると同時に、風が吹けばすぐに飛ばされてしまいそうなあやふやで不安定な存在の中に、何かたしかなものを見つけたかった。十九歳になったばかりの頃に始めた日記帳なので、二十二歳のはじめの頃に書き終えられた。文章を書く欄が三段組になっていて、一年目、二年目、と書いていくと、前の年の今頃どんなことをしていたか、どんなことを考えていたかわかるようになっている。なるべく一日の終わりにその日を振り返って書くようにしていたけれど、その日の終わりに書けなかった時は、翌日、もしくは翌々日に、その日のことを思い出しながら書いた。数日分の出来事をまとめて書くこともあった。
 最初の頃は、その日あったことを並べて、それについてのかんたんな感想を書くだけだったのが、次第に、その日つよく印象に残ったこととか、疑問に思ったこと、違和感を覚えたことなどを細かく書くようになった。失敗したことや、なかなか克服できずにいることや、痛みを感じることについて書くようになった。ふっと過去のことを思い出し、遠い記憶を遡って書いたりすることもあった。一日分の欄の中に書ききれない時は、便箋に続きを書いて、その日の欄の上にのりで貼りつけた。何枚も便箋に書き足す日もあった。そこには自分の感情や考えをなるべくありのままに、素直に書くようにした。ふだんの生活の中では、友人たちや家族ともなかなか話せないこと(近しい関係だからこそ話せないこと)。今まで誰にも言えなかったこと。

 素直に書かなければ書く意味はなかった。自分の内側には、自分自身でさえまだ触れたことのない(触れるのをためらっていた)部分があって、そこに近づくのは勇気がいることだった。でも少しずつ、そういう場所に近づき、そこでしばらくじっとして、その部分を見つめ、みとめられるようになっていった。迷いや疑いや怖れに心が覆われても、書くことで、絡まったものを一つひとつ解いていくことで、「これでいいんだ」と思えるようになった。今の自分のあり方を肯定することができた。毎日日記を書くことは、今思えば、自分が感じたり考えたりしていることや、認識していることを、自分自身で確かめる作業だった。そして、まだ見ぬ自分自身や世界について知るための方法だった。

 時間を忘れて、机に向かって何枚も何枚も書いている時、これは一体誰に向けて書いているのだろうと、ふと思った時があった。もちろんこれは誰に見せるつもりもない。誰かに読んでもらうために書いているわけじゃない。自分のために書いている。自分が必要としているから書いている。でも、たぶんそれだけではなかった、誰かのために、何かに向けて書いている、そう思った。その誰かは見えなかったけれど、心のどこかで知っていたような気もする。その時、書くことはとてもパーソナルな、一人だけの作業でありながら、そこでやっていたことは、本当はその「誰か」と通じようとすることだったのかもしれない。その誰かに、自分という存在がここにあることを知ってほしかった。自分のことを理解してほしかった。
 自分の内面を掘っていけば(その道筋を間違えなければ)、広々とした開けた場所に出る。そこには他者がいて、自分が本当には孤独でないことを知る。僕は今までに触れた文学を通じてそのことを知った。もしかしたらずっと昔、遠い過去に、音楽や舞台、絵画などの芸術を通じて理解したことかもしれない。それは太古から連綿と続いてきた、人間と人間とが結びつく深いコミュニケーションのあり方だ。そこでは時空間が交錯し、溶解し、あらゆる魂が形あるものから解き放たれて自由になる。どんなに抑圧されていても、たとえ禁じられたとしても、そういう場所に、人は、手を伸ばさずにはいられないのではないだろうか。

 僕はこれからも自分のために、自分が生きていくために書き続けるだろう。でも、それだけではない。書くことの意味は、きっとほかにもある。ここに小さなスペースを作り、「誰か」に通じる手紙を書き記していこうと思う。